2010年9月6日月曜日

早混の愛唱曲は捨てられる

 定期演奏会を世田谷区太子堂の昭和女子大学人見記念講堂で行うようになったのは、1985年の第30回から。当時、その前の郵便貯金ホール(港区芝・現在は「メルパルク・ホール」)の時代に渉外をやっていた先輩たちが、会場を変えると聞きつけて「そんなことをしたら自分たちの早混ではなくなってしまう。何とかやめさせることはできないか」と動揺し、憤慨した…という話が伝わっている。人見で定演を体験した25年間の世代には大きなお世話だろうし、郵貯より前の時期なら「いや[  ]で定演をやってこそ本物の早混だ。早く元に戻せ」とムキになって仰る向きもあるだろう(注:[  ]の中には、大隈講堂・共立講堂・東京文化会館大ホールなどが入る)。

 いつの時代の人間にとっても、自分たちが現役だった時代にやっていた早混こそ、懐かしい→正しい、理想の姿なんだと思考回路が出来上がっているわけ。演奏会の会場ひとつとってもこの騒ぎなんだから、ステージで何をやるかとか「HERZEN(愛唱曲集)」に何が載っているかなんて話になると、OBやOGの物の言い様は、もろ誤解やワガママのオン・パレード(笑)。

 CD10枚組の「早混・音の歩み」を製作した頃、長谷川博先生の時代(1961~65)に活躍された学生指揮者の方に「今でも現役生は『三つの民謡』を歌うことがあるのでしょうか?」と尋ねられて仰天したことがある。1970年代から現在に至る早混人は誰も知らないだろうから解説しておくと、メンデルスゾーンの無伴奏世俗合唱曲集の"Im Freien zu singen" op.41の2~4曲目を「三つの民謡」と呼び、吉田秀和の訳詞で1950年代の末からおよそ10年ほどの間、早混では愛唱曲の中の愛唱曲みたいな存在だった。今ならさしずめ木下牧子「鴎」(詞:三好達治)みたいな位置づけだったらしいが、愛唱曲の寿命は5年・10年が節目という宿命を免れず、1970年代に入った途端に「HERZEN」から削られ、あっという間に忘れ去られてしまいましたとさ――という話をすると、1960年代の先輩たちはひどくがっかりしたご様子になる。

 一度消えてしまったからといって、オレたちがあれほど夢中になって歌った、こんな良い曲なんだから、他の学年や現役たちもきっと喜んで一緒に歌ってくれるはずだ、現役のレパートリーとして是非復活してくれないか……というのは、無理な話。自分たちが使い慣れたフンドシは自分たちにしか締められないものだ。同じ早混でも5年・10年と時代が前後すれば、(流行とか世情とか要因は様々であるが)学生の音楽的意識も曲の好き嫌いも様変わりするからである。上述の「鴎」も若い子たちは好きで好きでたまらない…といった顔して歌っているが、去年、校友音楽祭の候補に挙がったときは、1960年代の先輩から「こんな地味でおとなしい曲のどこがいいんだ?」と怪訝な顔をされた。昔から、こんなことが繰り返されてきたのだろう。しかも、10年刻みの長いスタンスで徐々に変わるというよりも、わずか数年のうちに愛唱曲は陳腐化し、ゴミ箱行きになることすらあるのだから、現実は残酷というしかない。

 一例を挙げると、多田武彦「組曲・京都」収録の「ここが美しい、それは」(作詞:安水稔和)は、八尋先生の着任した1966年の学指揮ステージで取り上げられて以来、1970年代の前半には定演のアンコールで2度続けて歌われ、録音によると「私たちが日々、機会あるごとに皆で歌い、愛してやまない曲です」と紹介されているほどの愛着ぶりなのだが、それから3年ほどで「HERZEN」から消えている。筆者の勝手な憶測で恐縮だが、この曲がもてはやされたのは、学生運動が敗北と没落の末路をたどった時代と重なっており、その悲痛なまでの「滅びの美学」が先輩たちの心を揺さぶったものの、キャンパスが平静を取り戻すと急速に共感を得られなくなったからではないかと思う。

 版を重ねるたびに愛唱曲集から曲が削られるのは、事故や偶然で落ちてしまうのではないし、まして皆から惜しまれつつ姿を消すわけでもない。要するに、こんなもの歌ってないから、もういらない、他の曲と代えよう、と容赦なく捨てられてきたのである。「現役の愛唱曲集を見たら、オレたちの知らない曲ばかりじゃないか」と嘆くのは、別に50年前40年前の先輩に限った話ではない。筆者は30年前の現役だが、今の「HERZEN」で知っているのは、校歌(旧編曲)・紺碧(旧編曲)・栄光のほかは、「夜のうた」と「遙かな友に」「Ave Verum Corpus」だけ。また、若手のOB/OGから聞いた話を総合すると、卒業して10年もたてば、現役の音楽シーンと自分たちとの間にわずかながらもズレを感じるようになるという。歌っていた好きな曲が根こそぎ消えたとがっかりさせられるのは、いつでも誰にでもいずれは起こることなのだ。どれが残って、どれが捨てられるのかは、恐らく誰にも分からない。曲の生命力は、毎年受け継がれて行く歴代の早混によって左右されるからである。

 現役はもちろん世代を超えて早混人が皆で歌えるような「愛唱曲集」をつくってはどうか、との構想は以前からあって、7月の理事会でも要望が出ていた。スプリング・コンサートや新入生演奏会、フェアウェル・コンサートなどの記録を断片的に網羅して行くと、「三部作」以外に20年から30年の長きにわたって歌われていた曲というのは極めて少なく、磯部俶「遙かな友に」と佐々木伸尚「夜のうた」2曲で昔と今をカバーできる程度。いずれCDを付けて現役生向けにアンケートも実施してみたいと思うが、いくら長く歌われていても今の現役生が「こんなもの、いやだ」と拒絶反応が出そうな曲には慎重にならざるを得ないだろう。清水脩編曲による「そうらん節」「最上川舟歌」などは、1950年代の末から80年代の半ばまで演奏歴があるものの、今の若い子たちに「氷川きよしみたいな合唱曲」を付き合ってもらえるかどうか、自信はない。「昔の先輩たちが好きで歌っていたんだから、文句言わずに手伝え」と嫌々押し付けるような格好になったら、すぐにボイコットされるのがオチだろう。そもそも、いつの何を選ぶか、また、その選び方が難関だ。なるべく自分たちの時代の曲を多く入れさせようと方々でゴネられて「陣取り合戦」の様相を呈すればどうせろくなものにならないことは、団史やCDの選集を手がけていた頃にさんざん経験済みだから、特定の時代におもねることなく粛々と進めて行くのがベストだと思う。

2010年8月11日水曜日

オーケストラ・ニッポニカ第18回演奏会―「日本近代音楽館」へのオマージュ

 去る8月8日に日比谷公会堂にて開催。今までも稲門祭のときに2回ほど演奏してきたが、学外で早混稲門会合唱団の名前で活動するのは初めてとなった。

オーケストラ・ニッポニカ第18回演奏会
<「日本近代音楽館」へのオマージュ>
2010年8月8日(日) 東京・日比谷公会堂
深井史郎/ 大陸の歌 (1941/43)
伊福部昭/ 管絃樂の為の音詩「寒帯林」 (1945)
深井史郎/ 「平和への祈り」
- 四人の独唱者及び合唱と大管弦楽のための交声曲 大木惇夫作詞(1949)
↑今回出演作品

*ソリスト ソプラノ 佐々木典子・アルト 穴澤ゆう子・テノール 鈴木准・バス 河野克典
*合唱 Chor June、同志社混声合唱団〈東京〉及び早混稲門会合唱団を中心とする日本近代音楽館記念合唱団(合唱指導:四野見和敏・甲田潤)
指揮 本名徹次
管弦楽 オーケストラ・ニッポニカ
主催者HP

 今回の賛助出演の依頼は、校友音楽祭でご一緒している交響楽団の若手OBの方がニッポニカに所属されていたのが縁で、うちや同志社<東京>さんに話が来たのが始まりで、OB/OG通信などの呼びかけに応じて十数名が参加を申し出て下さった。

 瀧廉太郎、大中寅二といった歌曲の編曲物や早稲田大学校歌の東儀鉄笛は別として、主に戦前・戦中に活躍した邦人作曲家となると早混では全然縁がなくて、信時潔「いろはうた」を40年以上前に同志社とのジョイント合同曲でやったぐらいしか記録がない。もちろん深井史郎も小曲ひとつやったことがないらしく(1956年に盛岡で地方公演をした際、賛助出演した地元の放送合唱団が「青春讃歌」なる作品を歌ったとの検索結果が出ただけ)、今ではほとんど忘れ去られた作曲家による未知の作品に関心を持って下さったのは有り難いことだ。稲門会の方で100部ほど楽譜を印刷して音取り用のCDをつけて配ったが、結局本番は80名ほどになった。5月の第九のときも1割ほど辞退者が出たが、今回は冒頭が4分の6拍子で大詰めの二重フーガは8分の18拍子、調号を付けずに全部臨時記号だらけというボーカル・スコアに尻込みした人もいたのではないかと思う。もっとも、音取り用の音源を楽譜作成ソフトでこしらえて、音を出してみたら、大して難しくはなかったし、事前にニッポニカから3年前に蘇演した際の録音を提供されていて、実際にどんな曲なのか把握できていたから、勧誘するにも集めやすかったこともプラスになった。

 私事で恐縮だが、深井史郎の名前を知ったのは中学生の頃に岩城宏之指揮NHK交響楽団の演奏で「パロディ的な4楽章」の放送を観たのがきっかけ。その後、遺稿をまとめた「恐るるものへの風刺  ある作曲家の発言」(音楽之友社、1965年)を高校の図書館で見つけて、巻末の作品目録に「マイクロフォンのための音楽」とか奇抜な題名が並んでいる中に、「平和への祈り」という合唱曲があったが、まさか三十数年後に自分がこの曲を歌うことになるとは思わなかった。

 深井史郎に対する再評価は、オーケストラの側から色々試みられ、語られているが、今回、コーラスの視点から重要と思われるのは、この「平和への祈り」が邦人による本格的な混声合唱曲としてはかなり早い時期のものだからだ。この時代まで、ア・カペラやピアノ伴奏も含めて、混声合唱のための邦人作品というジャンルが出来ておらず(そもそも教会のコーラス隊以外に、演奏会を活動の中心とするアマチュアの混声合唱団など皆無だったから、需要も供給もないのである)、ましてや独唱と管弦楽を伴う大規模な合唱作品が創作・演奏されるなど滅多になかった時期なのだ。それに輪をかけて今でも鑑賞に値するような曲で演奏の機会は?となれば、今回の企画は邦人合唱音楽とその成立史を知る上でも極めて貴重な場となった。一般にアマチュアの管弦楽団は、ソリストの入る楽曲は敬遠気味で、特に合唱との共演はやりたがらないものだが(自分たちのステージが侵略されたような気分になるからで、こういった誤解・偏見はコーラスの方にも多分にある)、ここのオーケストラ・ニッポニカは声楽付きの作品の上演にも大変熱心で、7年前には信時潔「海道東征」(1940年)といった大作も取り上げている。技術的な面ではもちろん、作曲家と作品本位の真摯な姿勢をとる団体と今回巡り会えたことは、私たちにとっても有益な一歩としたいものだ。

 本番を間近にしてよんどころない事情が起きて、終演後のレセプションに出られなくなったのは、かえすがえすも残念だったけれども、幸いなことにマエストロはじめオケの皆さんは合唱の仕上がりを大変評価して下さったばかりか、稲門会合唱団や本体の早混に対して今後とも是非お付き合い頂きたいと関係されたスタッフの方からお話が来ている由。いやしくも「早混」を名乗る以上、現役(早稲田大学混声合唱団)の顔に泥を塗るような真似はできないと身構えて始めた練習だったが、オケ関係者はもとより、ネットの情報では聴衆からも好評だったようで、準備に携わった一人として大変うれしい。

 OB/OG会の提供するサービスとして可能な限り多くの会員のニーズに沿った企画や活動を心がけなければならないのはもちろんのことだが、いつでも誰でもできる名曲づくしの演奏会とは対照的に、母体である早混の底力や度量が外部で評価される今回みたいな賛助出演をやってみるのも長い目で見て悪い話ではないだろう。

2010年8月3日火曜日

「早稲田の栄光」いろいろ

 「早稲田の栄光」の歌碑が大隈講堂の時計台の真下に建立されたのが縁で、2008年12月の早混の定期演奏会には作詞者の岩崎巖さんが初めて来場された。曲が生まれてから50年以上も経つのに妙な話だが、今まで岩崎さんは混声合唱による「栄光」を聴かれたことがなかったそうで、早混が保管していた音源から旧編曲、現行版、管弦楽伴奏版など取り混ぜてCDにしてお届けしたところ、丁重な礼状を頂いた。会場の昭和女子大学人見記念講堂で演奏が一通り済んで、学生指揮者が岩崎さんのご来場を伝えるよりも前に「これから『早稲田の栄光』を歌います」と言った途端に割れんばかりの拍手が起こった。1957年頃からほぼ半世紀にわたり団内で愛唱され、主立った演奏会の最後には必ず演奏するほか、新演からフェアウェルまで混声の人間は「栄光」を歌って「栄光」で卒業しております云々の話はお知らせしてあったのだが、「待ってました」と声がかかりそうな会場の雰囲気こそ、岩崎さんには一番嬉しかったのではないかと思う。
 終演後、楽譜には「補作・西條八十」とある点についてお尋ねしたところ、当時創作に使ったノートなども残っていないので記憶は定かではないけれども、4番(早混では3番を飛ばして歌っているので紛らわしいが…)の「先哲の面影偲ぶ」の箇所は自分の手によるものではなく西條先生が書き加えられたものと記憶しております、とのことだった。いずれ、団の関係で再び出版物など出すことがあれば、この件についても記しておきたい。
 校歌研究会の懇談の折に聞いた話だが、晩年の芥川也寸志さんが「栄光」の楽譜を見て、これは自分の作品ではないと仰った由。グリークラブのOB筋によると、「栄光」をグリーが初演した際の練習には芥川さんご自身が立ち会ったそうだから、単にお忘れになっていただけのことだろう。ちなみに、応援部の資料によると、曲が完成したあとに作曲料を用意したところ「早大生が皆で歌ってくれれば十分です」と言って受け取ろうとはなさらなかったので、代わりに記念品を差し上げたそうである。数多くの学生歌の中でも「校歌」「紺碧」と並んで今なお愛唱され続けているのだから、作曲者さえ予想だにしなかったかけがえのない謝礼といえるのではないか。
 「校歌」ほどの混乱はないが、実は「栄光」にも版の違いみたいなものがある。
 早混と交響楽団で使っている楽譜は上記のもので、グリークラブに伝わっている作曲者の自筆譜によれば、これが本来の旋律らしいのだが、応援部の吹奏楽団の定期演奏会でアンコールにチアリーダーの面々とブラスバンドが合同で披露する「栄光」では、下のように歌われている。
 「うけつぎて」を全音下げると、素直で平明なイメージがするし、半音だとメロディーに「一抹の寂しさ」が少し加わって、音楽的には少し気取った「芸術的」な感じがする。どうして変わってしまったのかの経緯は不明だが、どっちが正しいかなどと目くじらを立てるほどの問題でもあるまい。
 また、グリークラブとコール・フリューゲルが歌っている男声四部合唱だと、曲のおしまいに下のような「コーダ」がついている。これは、グリークラブのOBの方に尋ねてみたら、もともとはなかったけれども、こうしたらカッコいいじゃないかと、いつの頃からかやり出して、いつの間にか定着してしまったそうだ。早混や早稲オケの感覚ではオリジナルの作品に勝手に手を加えるなどとんでもないところだが、編曲や改変には寛容なグリークラブらしい。以前に校歌研究会で、「都の西北」の調や速さはどの程度まで許容されるかについて、交響楽団とグリークラブの間で大きく意見が食い違ったときのことを思い出した。

2010年7月27日火曜日

客席のマナー違反とその傾向

 漫画「のだめカンタービレ」(原作:二ノ宮知子)が評判になって、オーケストラなどプロの演奏会に客が増えたのはよかったが、主催者を困らせたのは、マナーを知らない新参者がトラブルを起こすようになったことで、演奏中も喋ったり、物音がやかましいのがいる一方、これに過剰に反応してケンカになり、係員が飛んでくる…といった事件が何度かあったそうである。
 ずいぶん前の早混だが、ある年の地方公演で最前列に陣取っている母子連れがやかましく、挙げ句の果てに退屈したのか子供が舞台に上がってきて、たまりかねた八尋先生が演奏を途中で止めて子供を抱きかかえて客席に戻し、叱り付けた…という話が伝わっている(録音も残っているが、さすがにこんなものは出せない)。
 サントリーホールなど訓練を受けたフロア・アテンダントが常駐しているところだと、騒ぎを起こす者はもとよりカメラ小僧や「飲食犯」まで事を荒立てずに処理してしまうが、予算の少ない公営の施設だとその種の対応が甘くて、結果、不愉快な思いをさせられることも少なくない。
 演奏中に私語を交わす手合いというのは、クラシック・ファンが故意にやる確信犯は滅多にいなくて(よほど演奏がひどい場合は別)、大半は、この種の催し物は初めてという素人が危ない。他人に迷惑をかける気はなくても、スポーツ観戦や歌謡ショーあたりと同列に考えているらしく、叱られなくても周囲の視線に気がついて次第に大人しくなる。プロのリサイタルや定期演奏会、あと早混の定演など学生の音楽サークルには出没しないが、社会人、それも出演者に中高年の多いアマチュアの団体がからむコンサートは注意報や警報ものである。つまり、家族や友人など親しい相手を厳選してチケットを配る若手とは異なり、金に糸目を付けない「旦那芸」と化したおじさん・おばさんたちになると隣近所はもちろん取引先や飲み屋の知り合いとか、手当たり次第にばらまく傾向があるからで、その分、クラシック音楽も演奏会のマナーも知らない素人が紛れ込む危険性が高まるわけである。
 逆に、学生の音楽サークルが主催する演奏会によく出没する「迷惑お化け」は、一にOB(OG)、二に「(チケット交換で入ってくる)よその学生」だろう。
 稲門会の役員をやる前の話だが、人見の2階席で早混の開演を待っていたら、前の方で「同業者」の学生らしい数人がやかましくて、やれうちの方が早混より上手だの、格は上だのと生意気なことを言ってる。演奏が始まってもべらべらやってるなら貴様ら学生証を見せろと叱り付けてやろうかと考えているうちに静かになった。最近も、休憩中に稲門会の受付で見ていて面妖なのは、前半だけ見てアンケートを出して足早に会場を去る若い連中がいることだ。現役に聞いてみると、昔と違って今のチケット交換というのは、よそから受け取った入場券を部室に並べといて各々が面白そうなところへ自由に聴きに行く、人気がないところは残ったまま…というのではない由。交換したら、お互い何人ずつ行きますという約束ないし暗黙の了解があって、余れば下級生などにノルマを割り当てて、確かに来ましたよとアンケートに所属団体の名前を書いて帰るんだそうだ。客の入りが悪ければ公共の施設でも翌年から利用を断られてしまうこともあるから、観客動員力を維持するための互助会みたいな仕組みなのだろうが、興味や関心もないのに嫌々聴きに行ったり来たりするなら、モラルは低下するものだ(上述の旦那が配るチケットと似ている)。
 一方、OBやOGが現役の演奏会にお出ましになると、身内意識というか、自分の家みたいな感覚が悪い方向に向かって、よそでは出来ないような傍若無人な振る舞いに至ることもある。筆者が現役の頃、会場が混雑しているのに憤慨し、OBに招待席も用意できないのかと受付で怒鳴り散らしたアホな卒団生がいたそうだ。そこまでエスカレートしなくても、客席で周囲の目を気にせずに「俺たちの方がうまかった」なんて偉ぶった感想を並べている人々は意外とおいでのようだ。終演後に酒席で何を抜かそうと勝手だが、出演者の家族や友人はもちろん、他の卒団生も多数来ていて、誰が何を聞いているかも分からない場所で、関係者に不愉快な思いを抱かせるような言動は慎むべきだろう。(「自分たちが一番うまかった」と言い放つOB/OGの自慢話は真に受けないのが賢明である。大体、自分たちが入団するよりも前の早混はもちろん、卒団したあとの早混までこまめに聴き続けている者などほとんどいないはずである。自分たちより優れた演奏があっても、それを知らないか、曲の好き嫌いや演奏スタイルの違いから「他の早混」の良さを認めようとしないだけの話なのだ。自画自賛ではなく、見知らぬ世代からも評価され続けている演奏や録音こそ本物の名演だろう。)

2010年7月23日金曜日

追悼演奏

 ここで取り上げる「追悼演奏」は、所謂「追悼演奏会」とは別のものである。
 追悼演奏を行うのにはいくつか種類があって、大規模な災害や要人の逝去など、主催者とは直接関係のない不幸な出来事であっても社会的に大きな衝撃を与えた凶事に対して演奏会の冒頭にその旨を観客に伝え、亡くなった人(々)への追悼の意を表してプログラムとは別に演奏を行うのが一つの儀礼として定着している。
 卑近な例では、1995年1月に阪神・淡路大震災が起こったときには、東京でも2月頃に開かれたクラシックその他の演奏会では犠牲者に哀悼の意を表するとして、追悼演奏が行われていた。特別な事情がある場合に、出演者にとっても観客にとっても感情として知らん顔をするのが憚られるものがあり、娯楽の場であっても気持ちの整理をする意味もあるのだろう。アナウンスないし出演者が口頭により追悼演奏を行うことを伝え、演奏後に黙祷を行うので、拍手は控えて欲しいと一言添える。これをうけて観客も拍手をしないのがマナーである。
 主催者側、特に出演者の希望で行われるのは、関係者、たとえば指揮者やその団体と縁の深い音楽家が亡くなった直後の演奏会などで追悼演奏のステージを設けることがある。かつてウィーン芸術週間の最中にソヴィエト・ロシアの作曲家ドミトリイ・ショスタコーヴィチの訃報が伝えられたときには、作曲者に演奏を絶賛されて親交の深かったレナード・バーンスタインがウィーン・フィルを指揮して交響曲第5番の第3楽章を演奏した。取り上げる作品は必ずしもレクイエムといった葬送のための楽曲でなければいけないといった習慣上の制約は特にないようである(むしろ、イデオロギーや宗教・宗派の違いを越えた追悼を希望する意味での配慮もあるかもしれない)。
 早混でも以前に団員が交通事故で亡くなったときには舞台袖に遺影を飾ったり、プログラムにその旨の記載をするなど、演奏という形に限らず、しかるべき措置を執り行ったことがある。縁起でもない…なんて叱られそうだが、普段と違う出来事には何をするのか知らなかったばかりに恥をかいたり関係者に嫌な思いをさせてしまうよりも、「有職故実」をしっかりと書いたり伝えたりする方に意味があるのではないだろうか。
 2003年5月に同志社学生混声合唱団を長く指導していた榎本利彦先生が亡くなられて、翌月東京で交歓演奏会が開かれた際、東混の同僚として親しかった八尋和美先生は早混のステージでJ.S.バッハのモテットを指揮される前に榎本先生の逝去を伝え、追悼演奏としたい旨のスピーチをされたことがあった。1970年代から1990年代にかけて早稲田・同志社のジョイント・コンサートではお馴染みの方だったから10年以上前に退任されていたとはいえ、東京のお客さんにも追悼の趣旨は理解されたことと思う。ただし、少し残念に思ったのは、同志社の現役からは何のアクションもなかったことで(もちろん7月にはOB・OG会による追悼行事が京都で開かれている)、時間的な制約もあり追悼演奏どころか何をどうしてよいものか頭もまわらなかったのだろうが、ロビーに告知の文面を張り出しておくだけでもできなかったものか。現役生にそこまで期待するのは無理なのかもしれないが、「卒団生の皆様、ぜひ演奏会にお越し下さい」という言葉に気持ちがこもっているかどうかは、こういったemergencyで試されるものである。

2010年6月10日木曜日

早稲田大学校歌の正しい歌い方・その3

 1907年に作詞・作曲された時の3番の歌詞は「あれ見よしこの…」だったのが、なぜか大正期になると「あれ見よしこの…」に変わってしまった話については、いずれ稿を改め自説も交えて取り上げてみるとして、ここでは元々は「あしこ」と作詞されていたのが今では「かしこ」で通っているけれども、「あしこ」も間違いではないと記すにとどめる。

 公式に認められている校歌の原典は2種あって、一つは作曲者の東儀鉄笛自筆譜と前坂重太郎校訂による早稲田マーチであるという話は前にしたが、現在、大学で配布されている「早稲田大学歌集」はどちらによるものなのか?となると、実は両者の折衷型で、歌集にはちゃんとした解説や指示が書かれていないため、戸惑う新入生も多いのではないかと思う。1番「久遠の理想」2番「理想の影は」3番「空もとどろに」の楽譜と歌詞の譜割は歌集では次のようになっている。


 2番の「理想」が現在では歌われていない形なのに加えて、2分音符にカナ2つという明治・大正期の歌に見られる曖昧な分け方をしているのに、鉄笛自筆譜の付点4分+8分の楽譜を貼り付けているのだが、これだとどこをどう歌えばよいのか、かえって分かりにくい。それぞれの楽譜を比較するとこうなる。上が自筆譜、下が早稲田マーチである。

 つまり、音符は早稲田マーチの楽譜を基本として部分的に鉄笛自筆譜で補っている一方、歌詞は1番が早稲田マーチ、2番と3番は鉄笛オリジナルの譜割を合体させている。編者は両者の歌いやすいところを重ねる意図でこうやったのだろうけれども、1番の早稲田マーチでは「ん」をどこに持って行けばいいのか判然としないし、2番では折角前坂重太郎が歌いやすく手直しした「りそう」の歌いやすさが元の不自然な譜割に戻ってしまっている。3番は早稲田マーチでは行き場のなかった「も」の扱いを鉄笛の楽譜をあてることで分かりやすく処理しているので、これは評価して良いだろう。まとめてみると、1・3番は鉄笛オリジナルの譜割の方が分かりやすく、歌いやすいし、2番は早稲田マーチの方が自然である。

 下記の楽譜は1つの提案。「2番は下の音符で歌うこと」とか注を入れたらよいのではないかと思う。

2010年6月9日水曜日

早稲田大学校歌の正しい歌い方・その2

 校歌研究会の会員だったおかげで、創立125周年の2007年秋には、資料展のパネル展示の原稿を書かせて頂いたり、楽しい思いをずいぶんさせてもらった。その中に、学内誌の原稿チェックの依頼があって、丹念にチェックしたのはよかったのだが、自分のところに回ってこなかった部分で2番の歌詞に触れた下りで「一つに渦巻く大国の…」と出てしまって、担当の方も恐縮しておいでのようだった。日露戦争に勝った後とはいえ、校歌が作詞された1907年は「東亜の新秩序」だの「大東亜共栄圏」などという忌まわしい発想は唱えられていなかった時代で、校歌の「だいとうこくの大なる使命」は「大島国」、つまり日本列島と周辺の島嶼のことで、特に侵略主義的な思想を鼓吹するものではない(変なナショナリズムにかぶれた今どきの学生だと却って勘違いしそうで困るのだが…)。校歌研究会では大隈侯晩年の主張であった「東西文明の調和」に焦点があてられ、久しく関心がもたれなかった2番の歌詞の重要性について新たな話題を提供したが、これについてはいずれ別の機会で触れてみたい。

 本題に入るが、歌い方で問題となるのは、1番と同じく「やがても久遠の理想の影は」である。作曲者・東儀鉄笛が1907年に記した譜面では、下のようになる。


 この「りーそうの」という譜割は、現在では応援部で継承されて残っているものの、一般には次の形になっている。これは、1915(大正4)年に前坂重太郎が作曲者自身の指導のもと、校歌の伴奏と和声を含む編曲譜(所謂「早稲田マーチ」)をつくった際に訂正したものとされる。


 これは「その1」でも触れたように、3文字目を伸ばすという邦楽の伝統的な歌唱法に即したもので、「りーそお」ではなくて「り・そ・おー」の方が歌いやすいから、適切な改変と言える(どうせ変えるなら、1番の久遠も大正4年に一緒に直しておいてくれたらよかったのに…)。

 2007年の125周年記念演奏会で早混、グリー、フリューゲル、早合の連合軍が交響楽団と一緒に校歌を披露したときも怪しかったが、最近でも校友会の寄付講座などで新入生が校歌を歌っているのを聴いていてぎょっとさせられるのは、1番の久遠の歌い方を入学式の歌唱指導などで「くーおーんの」とうるさく仕込まれるのが逆に災いして、きちんと教えてもらっていない2番の久遠をこんなふうに歌ってしまう現役生がけっこういるらしいのである。


 これは、作曲者自筆譜、「早稲田マーチ」改訂譜のいずれとも異なる明らかな間違いである。もともとグリークラブの男声合唱版でも早混の旧旧・旧編曲でも2番は飛ばすから、公式な場で2番をちゃんと歌う機会がない。原調のニ長調により器楽付きの伴奏譜に基づいて1番から3番まで斉唱でも歌えるようにしておいた方が良い。学内各合唱サークル、特に非インカレ系の伝統を誇る3団体の責任は重大である。