2014年5月3日土曜日

校歌の編曲あれこれ

 「早混稲門会OB/OG通信」2014年春号に投稿するつもりで執筆したのだがボツになったので、個人のブログで発表することにした。不掲載の理由は結局不明のまま。この程度で騒ぎが起こるとも思えないが、校歌の新しい編曲がお嫌いな向きには現役や若い子たちに知られたくない内容も含まれていたようだ(苦笑)。
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戸田版60周年・長谷川版50周年・若林版20周年
校歌の編曲あれこれ

 今年は、「早稲田大学校歌」を混声合唱に編曲した「戸田版」が誕生して60年、「長谷川版」が誕生して50年、「若林版」が誕生して20年という節目を迎える。
 校歌の編曲は、作曲家の石桁眞禮生(いしけたまれお・1916-1996)に和声を学んでいた5期の戸田明男さんが1954年に手がけたものが最初である。1番をハ長調のユニゾンで歌って、2番でヘ長調の混声4部にディビジョンし、3番を「ヘンデルの『ハレルヤ』のような」形でまとめるのが、当初の構想だったというが、残念なことに3番のフーガは完成しなかった。その後、2番も斉唱するか2番3番と続けてディヴィジョンするかで試行錯誤があってから、1番のユニゾンから3番に飛び華々しく和音を響かせる歌い方が定着した。この「戸田版」は、後に早大合唱団など学内の他の混声サークルにも伝わり、歌われていたという。戸田版が目指したモノフォニックな響きとポリフォニックな響きは、そのビジョンがともに長谷川版と若林版の中で結実したのであって、戸田版の歴史的な価値は決して色褪せていない。
 現在、卒団生の行事などで広く歌われている譜面は、1964年に当時の専任指揮者だった長谷川博先生が編曲した。全体のスタイルはそのままで和声だけ変えた理由については伝わっていないが、石桁眞禮生の指導を受けて創造性の強いエネルギッシュな和声進行も盛り込まれた戸田版に比べ、長谷川版はすべて「音楽の教科書通り」のオーソドックスな和音に戻されているあたりに鍵はありそうである。同じ頃につくられた川崎版の「紺碧の空」「早稲田の栄光」は秘かに何度も和声が手直しされた一方、長谷川版の校歌は、シンプルさが受け入れられたのか、特に手を加えられることもなくそのまま受け継がれていった。
 現在、定期演奏会などで披露されているバージョンは、1994年に八尋和美先生の提案により、作曲家の若林千春氏によって新たに編曲されたものである。その狙いや事情については定かではないが、どうやら八尋先生にとって校歌の編曲とは定期演奏会の冒頭で現役が歌うためのもので、これ以外の機会や場面は念頭になかったらしい。結局のところ、卒団生関係や学校行事での利用もあって、長谷川版を廃止して若林版に乗り換えることにはならず、シチュエーションに応じて新旧のバージョンを使い分けるスタイルが現在まで続いている。
 20年間にわたって現役生が若林版を大切に歌ってきたという実績は重く受け止めなければならないのだが、OB/OGはもとより早稲田大学関係者の間でも、若林版に対して賛否両論があることは事実である。長谷川版に慣れ親しんだ世代の中からも「自分が現役のときにこのような形で校歌を歌いたかった」「『都の西北変奏曲』ということでいいのではないか」といった肯定的な声があがる一方、調性を大きくいじって全体にポリフォニックな進行になり、しかも静謐な雰囲気を漂わせていることへの不満もこれまで少なからず耳にしてきた。早混の定演で若林版を聴いたグリークラブのOBが「混声には校歌を歌ってほしくない」と激怒した話が伝わるのとは裏腹に、交響楽団と応援部吹奏楽団の関係者からは「(若林版は)混声合唱の特色が十二分に活かされた優れた編曲である」との高い評価を頂いている。
 これらの相反する言い分を理解するに、神宮球場で校旗が翻っているような「早稲田らしい」イメージを校歌の演奏に求め、期待する人は、繊細極まりない早混の若林版に違和感を禁じ得ない反面、八尋先生のもとで50年近くにわたって先輩後輩たちが築き上げてきた音楽スタイルの「入り口」「延長線」として「都の西北」を聴いてみたい人は早混が自己紹介するためのツールである若林版を肯定するのだろう。
 「入学して初めて早混の校歌を聴いたら、『あれ?早稲田の校歌ってこんな曲だったかしら…』と一瞬思いました」という若手OGの声もあるくらいで、若林版の難点の一つはとにかくアレンジが効きすぎていて、オリジナルの旋律から大きく離れてしまっている部分があること(特に2番の「ひとつに渦巻く大島国の」など)。入学式の歌唱指導やスポーツの試合前のセレモニーなど、八尋先生や早混のことを知らない一般客が相手では、さすがに若林版は使えないようである。
 もっとも、長谷川版とて万能ではない。グリーの男声合唱版もそうだが、3番の美しいハーモニーを際立たせるためとはいえ、「都の西北、早稲田の森に…」という世に最も知られた折角のフレーズを「前振り」のような地味な存在に落としているのはもったいない。ブラスバンドやオーケストラの奏でる校歌にはファンファーレとグリッサンドが特徴的な8小節の前奏がつくが、これはそれなりに意味があるのである。また、しばらく前にラグビーの大学対抗戦で試合前に長谷川版の校歌を現役が披露したところ、「賛美歌みたいな都の西北が流れていた」とネットで評判になったのは良かったが、「観客が一緒に歌えないので、転調するのはやめてくれ」と主催者側からクレームが付いて次からは斉唱で歌う羽目になった。自分たちの歌声をお客さんは黙って聞いてくれるものだとばかり思っていると足をすくわれるわけで、交響楽団やマンドリン楽部のコンサートでは、聴衆も一緒に校歌を口ずさんでいる。早混だってたまには会場のお客さんと一緒に歌う機会があると面白いかもしれない。
 学位授与式や記念式典などで校歌を「奏楽」するときは楽器だけで合唱は使わない、というのが昔からの慣例とのことだが、大学創立125周年のときには男声合唱と管弦楽の譜面が新たに作られた。重要な学校行事から早混は外されっぱなし…というのも残念な話で、いささか音楽的な興趣に乏しいのは我慢するとして、オリジナルのニ長調で1番から3番まで通して管弦楽やブラスバンドと一緒に校歌を歌う現役の姿も一度は見てみたいものである。

2012年5月6日日曜日

東京六大学混声合唱連盟第54回定期演奏会を聴いて

昨日の午後は、上野の東京文化会館大ホールで東京六大学混声合唱連盟第54回定期演奏会。今回は法政大学アカデミー合唱団は冒頭のエール交歓のみの出演。この2月に演奏旅行の下見に現地入りしていた団員が不慮の事故で亡くなったため、活動を自粛中とのこと。

青山学院大学グリーンハーモニー合唱団はひところステージに乗るメンバーが十数名まで落ち込んだが、このところ持ち直してきた模様。現代イギリスの作曲家・Bob Chilcottのアカペラ作品から4曲。ブリテン以来の中庸な聴き心地の良い作風だが、音程がいまひとつ不安定なのが惜しい。

うちの現役(早稲田大学混声合唱団)は信長貴富編曲「アニソン・オールディーズ」より3曲。大野雄二「ルパン三世のテーマ」は、スキャットの裏拍の打ち方で切れ味がぱっとしないのはいかにもうちの不得手が出てしまっている。羽田健太郎「宝島」で急に水を得た魚みたいに音量が元気になるのにはニヤリとさせられた。「ルパン三世」もそうだが、本物の放送を同時代に観て馴染んでいると、「鉄腕アトム」で前奏や間奏が全く別のものに付け替えられているのはどうも頂けない。とはいえ、平易なメロディーを選んでいながら、かなり手の込んだ編曲を披露するのは技術的なアピールとしてよく考えていて評価したい。

東京大学柏葉会合唱団は鈴木輝明「もうひとつのかお」。早混もしばらく前に定期演奏会で取り上げた曲だが、同時代の作曲家で耳の肥えた合唱ファンをうならせるのにかけては、相変わらず柏葉はことのほかうまいとほめたくなる。人数も六団体のうちではダントツで、いい活動をしていると人材に恵まれる幸福な例だろう。

慶應義塾大学混声合唱団楽友会は武満徹「うた」より3曲を指揮された栗山文昭先生ご自身の編曲による演奏。いずれも寺嶋陸也によるピアノ伴奏付き。「死んだ男の残したものは」は林光と作曲者自身によるアレンジが知られているが、栗山版はラヴェル「夜のガスパール~絞首台」を思わせるピアノの上に女声、男声とモノフォニックに歌い込むスタイルに斬新さを感じた。「昨日のしみ」「めぐり逢い」も好演。ただ、気になったのは技術的に磨き上げた副作用なのか、人数の落ち込みがハンパではなく、青山学院と同じ規模になっているのは心配。

明治大学混声合唱団は、長年音楽監督で明混トーンを築き上げ一昨年亡くなられた高田作造先生の編曲によるカンツォーネ4曲。(言っては悪いが)イタリア・オペラの群衆の合唱ばかり20年近くも聴かされてうんざりしていたので、すごく新鮮で面白かった。ピアノにマンドリン4本の伴奏は、雰囲気があって良いのだけど、fffで合唱とピアノにかき消されてしまうのは頂けない。マンドリンとギター数名のアンサンブルの方が音が溶け込むのではないか。

合同演奏は、岩本達明の指揮によりムソルグスキー「展覧会の絵」の伊藤康英による編曲。「混声合唱とピアノ連弾のための交響的カンタータ」とタイトルにあるが、もともとは吹奏楽・サクソフォーン4重奏・ピアノ2台8手という器楽中心の大規模な編成に合唱が随所に加わる形の作品で、これを相変わらずの不見識により、ピアノ1台の4手連弾によるヴォーカル・スコアで演奏してしまった。ヴォーカル・スコアの伴奏は練習のときに便宜的に使うものであって、これ自体が聴衆に披露するに値するかどうかは甚だ疑問だ。おまけに、合唱が出てくるところだけ取り出して、あとは割愛したり、曲を縮めたりするつまみ食いでは、一貫性に欠ける。要するに「第九交響曲」で合唱の出てくるところだけ編集してピアノの伴奏で歌っているようなもので、興趣のないことおびただしい。ヴォカリーズではなくて、シラー、ゲーテその他の詩をもってきていて、第2プロムナードの大らかなメロディーに杜甫の詩をあてて中国語で歌わせたのは秀逸のアイデア。惜しむらくは、終曲「キエフの大門」をシラーの「歓喜に寄す」(第九交響曲に用いられたあれ)をドイツ語で歌ったのだが、ロシア音楽の味わいを活かすなら子音の濁り方に独特の力強さがあるロシア語でやったらアレンジの価値もさらに高まっただろう。技術的にかなりしっかりまとめていたのは評価したいが、いかんせん編成が悪い。器楽曲の1パートとして合唱が参加しているに過ぎない作品を、器楽の部分を貧弱にしたからといって合唱が引き立つわけではない。主旋律が聞こえずに「伴奏」のコーラスばかり目立つ箇所が方々に見られて、何を聴かせるつもりなのか。毎度縁故客相手に自分たちが歌うことが第一で標準的な音楽ファンの目線を軽視するから、こんな最悪な企画を考えつくのだろう。各団体ともけっこう技術的に良い演奏しているから、なおさら情けなくなった。「船頭多くして…」の体質が治らないなら、いっそのこと合同演奏をやめた方がいいのではないか。

2012年4月26日木曜日

校歌・学生歌の始まりは「替え歌」だった

2012年4月21日の朝日新聞朝刊の土曜版「be」に掲載の「うたの旅人」は、瀬戸口藤吉「軍艦マーチ」を取り上げ​ている。記事の前半は、1908年(明治41年・「都の西北」の​翌年)に東北の名門・盛岡第一高等学校(当時は盛岡中学)が校歌​のメロディーに「軍艦マーチ」を用いた経緯について詳しくまとめて​いるのだが、「何でまた校歌を軍歌の替え歌などに?」という背景​に関して《…当時はすべてにおおらか、そのまま校歌になった。》​との解説。これは誤報とまでは言わないが、かなり調べが足らないし、説明として不十分である。

 スペースの都合ではしょってしまったのかもしれないが、明治時代​の「校歌(カレツヂ・ソング)」は、新たに独自の作曲をするもの​ではなく、身近に歌われ聞き慣れた俗謡・童謡・軍歌・唱歌、さら​には先行する学校の校歌ないし学生歌の節回しを借用して、それぞ​れの校風を読み込んだ歌詞を乗せる「替え歌」がごく普通だったと​いう学問上の常識を、どうやら朝日の記者は調べ漏らしたのではな​かろうか。

 学童への音楽教育が未発達で、カラオケどころかラヂオ放送や蓄音​機さえ普及・存在しなかった明治以前の一般人(欧米も同じ)は、​芸人や音楽家といった特殊な技能を身に付けた場合を除いて、ドレ​ミファ…を正確に歌えなかったと言われている。わざわざ新しい曲​を用意しても、練習が面倒だし、普及させるのが難しいから、出来​合いの曲を流用するのが一番確実だったのだ(その点、米国の学生​歌を参考にしたとはいえ、オリジナルの曲を一から歌わせ、流行ら​せた早稲田の例は例外中の例外と言える)。

 筆者の住んでいる隣市の某小学校は、明治中期から続く古い学校だ​が、先年、書類の奥から昔の校歌の歌詞を記した紙が出てきて、楽​譜はない。地元の古老を訪ねて回ったら「祖父母がよく歌っていた​」という人がいて、確認したら旋律は当時良く流れていた軍歌「橘​中佐」(作詞:鍵谷徳三郎・作曲:安田俊高)のメロディーだったという。

 これは特別ではなく、和歌山県下の小学校では、歌詞だけ学校ごと​に変えて、旋律は同じものを使い回ししていた例が報告されている​し、盛岡中学と同じ年に京都の同志社では、「自分たちもカレツヂ​ソングがほしい」という学生の求めに応じて、米人教師が母校のイ​エール大学の校歌の旋律に新たな歌詞を付けてくれた曲は現在でも​同大学では親しまれている(ちなみに、オリジナルはカール・ヴィ​ルヘルム作曲のドイツの軍歌「ラインの守り」である)。

 朝日の記事の中盤では、軍国主義の鼓舞・宣伝に使われたような曲​を校歌として歌うことが戦後、問題視されたことが取り上げられて​いるけど、オリジナルの曲ではないことにケチをつけるようになっ​たのは、大正の末から昭和にかけて、全国的に自前の歌をこしらえ​てもてはやす「校歌」「社歌」が一大ブームになって以降の話で、​それ以前の校歌や学生歌は、そもそも成り立ちが違うということは​知っておいた方がよいだろう。

 元の歌がどこの国のどういう曲だったかにこだわるよりも、自分た​ちにふさわしい歌詞を付けて自分たちで盛り立てて育てていった「​実績」自体を重要視する方が、総じて多いように思われる。
 2度の大戦で敵国として戦い、多数の卒業生が命を落としたドイツ​の軍歌だからといって(映画「カサブランカ」の中でナチスの将校​が酒場で歌っているシーンあり)、イエール大学は「Bright​ college years」を捨てることはなかった。

 面白いことに、産経新聞が以前報じていたが、北朝鮮のマスゲーム​でしばしば流れる何とかという「革命歌」と大韓民国のとある大学​で古くから愛唱されている学生歌は、両方ともメロディーは日本の​「鉄道唱歌」をそのまま使っているそうである。

 また、南北戦争の最中にリンカーンの北軍が士気を鼓舞するために​歌い始めた「Tramp, Tramp, Tramp」という軍歌は、歌詞の一部を変えて南軍でも歌われ、​戦後もミネソタ大の学生歌として歌い継がれ、アイルランドに伝わ​ると独立運動の革命歌となって現在では第二の国歌としてフットボ​ールの試合では必ず歌われ、日本では北海道大学の校歌や同志社大​ラグビー部のクラブ・ソング、複数のキリスト教教団の賛美歌とし​て、みな同じ旋律とのこと。

 革命歌にせよ、学生歌、(狭義の)校歌であっても、所属する社会​・団体の帰属意識やナショナリズムを自覚・強調させるための手段​として用いるのが主目的だから、旋律など、覚えやすく親しみやす​く歌い継がれるなら出自などどうでもよいのだろう。

2011年11月21日月曜日

「都の西北」は「校歌」ではない──college anthemとcollege song

「『都の西北』は校歌ではない」と言うと、驚く方も多いと思う。名称・定義としては紛らわしく、一般に混同されているのだが、厳密には、college anthem(狭義の「校歌」)とcollege song(いわゆる「学生歌」)は役割も目的も異なるものである。
全国津々浦々の小・中・高等学校・大学で自前の歌詞にオリジナルの曲を創作する「校歌」が一大ブームとなるのは大正の終わりから昭和のはじめ頃にかけての時期であった。これ以来の校歌にまとわるイメージは、式典の際に荘重に演奏され、歌われる「聖歌」に近いものだろう。すなわち、卒業式や入学式において、学校の講堂に生徒が集められ、壇上には日章旗が掲げられ、演壇の左右には校旗と松の盆栽などが置かれ、国歌の斉唱に続いて教職員並びに生徒全員がうやうやしく歌う、あの光景である。欧米の大学には、出席者が唱和するのではなく、学内のチャペルで執り行われる式典に際し聖歌隊の演奏に全員が耳を傾ける、というパターンもあるそうだ。
この場合のanthemは、僧侶の読経や神主の祝詞と同じく、組織・集団(ここでは学校)への帰属心や忠誠の念を意識させるための有効な手段として機能している。従って、anthemは神聖な存在であって、目的外の乱用は憚られる。
 例えば、慶應義塾大学の学生並びに関係者の間では、「塾歌」を宴会などで歌ってはならない、という不文律が存在するそうである。(信時潔作曲による現在の「塾歌」は、1940年につくられた3代目。他の校歌と比べて、かなり新しい。ちなみに有名な「若き血」は1927年につくられた応援歌・学生歌である。当然のことだが、校歌ではないから、どこでどう歌おうとお咎めなしである)
 この点、昔から「都の西北」を酒席や路頭で高歌放吟させている早稲田と対照的なのだが、別に早稲田が昔からanthem(聖歌)の扱いに寛容であったとかいい加減だったということではない。そもそも、タイトルは「早稲田大学校歌」ではあるが、その成り立ちや歩みを見るに、anthemとしての色彩は極めて希薄だった。明治40年(1907年)の校歌誕生に先立ち、早稲田学報で学生たちから作歌・作曲を募集した際、採用した曲は式典でも用いる場合があることを示したものの、結局、創立25周年の記念式典では演奏の機会は与えられず、余興の寸劇の中で歌われ、夜半の提灯行列で高歌放吟される形で世に出た。つまり、当初はsongとして企図され、実践されたものであって、式典などで積極的に「都の西北」が活用されるのは、もうしばらく後の大正期に伴奏用の譜面がつくられるようになってからの話である。
 明治時代の大学関係の刊行物には、「校歌」に「カレッヂ・ソング」とルビを振るものがあり、anthemとsongの区別は曖昧だった。我が国の「寮歌」の例を挙げるまでもなく、19世紀までの欧米の大学において主流を占めたのはcollege song、すなわち「学生歌」である。当時は、音楽教育やメディアが未発達であったため、新しく曲を作って学生全員に覚えさせ普及させるのは大変困難なことだった。だから、既に広く知られ歌われている既存の軍歌、民謡、童謡、流行歌、讃美歌、さらには先行する他校の学生歌から旋律を借用し、自分たちの学校の有り様や学生気質を盛り込んだ歌詞をつけて歌う「替え歌」が学生歌の姿そのものだった。いわゆる日本の学校で「校歌」と言われるグループのうち、他よりも早い明治期に生まれたものの多くが、オリジナルの作曲ではなく、欧米の楽曲に基づく旋律が少なくないのは、本来の伝統的な学生歌の創作方法によるものだったからである。
 ここまでの説明によりお分かりのように、本来、college songとは、学校の教職員や大学当局が生徒・学生たちに公布し励行させる類のものではなく、学生たちが自分たちの存在を誇示し、仲間としての連帯意識を高めるため、自発的に生み出し、育ててきた性格が強い。「都の西北」も、坪内逍遙や島村抱月の主導でつくられたものの、いざ出来上がったあとは、事実上のほったらかし状態だった。「教育勅語」のように各学校で写しを厳重に保管し、片言隻句も違えず暗記させたのとは対照的に、早稲田大学には校歌の楽譜や歌詞の原本が保管されないどころか、歌唱指導も行われなかった。学生たちが勝手に歌い継ぎ、聞き覚えで伝えられて普及したのを受けて、anthemとしての側面も帯びるようになったと言える。
 冒頭に「『都の西北』は校歌ではない」と申し上げたのは、もともと「学生歌」として生まれ育った「都の西北」は、曲自体の持つ生命力により、歴代多くの学生たちに親しまれ、100年歌い継がれ、世に知られる存在になったのだ。従って、世間一般でイメージされている数多くの「校歌(anthem)」とは、生まれも育ちも実は全く異なった曲なのだ、という意味として受け取って頂ければ幸いである。

「都の西北」は“序破急”である

創立125周年を迎えた4年前の稲門祭では、校歌研究会によるシンポジウムが開かれたほか、会津八一記念館では大学史資料センターによる校歌関係の資料展が催され、相馬御風の揮毫や東儀鉄笛の自筆譜と並んで、イエール大学の学生歌「Old Yale」の収録された曲集が初めて一般公開された。
校歌の旋律や歌詞のモチーフなど、「都の西北」を生み出す際に参考にしたらしい箇所が見られるのだが、この学生歌自体、オリジナルの作品ではなく、1837年に英米で大ヒットしたジェームズ・ローダー作曲「The brave old oak」をもとにした替え歌である。
センターから依頼されて、「Old Yale」と「都の西北」の楽譜を部分ごとに対比させ、鉄笛がどのような箇所を下敷きにして、どういったところは使わなかったか、鉄笛のオリジナリティがどのように反映されているのか、色付きのパネルで解説させてもらった。
歌詞についての詳細な分析は別の機会とすることとして、鉄笛はオリジナルの曲をそのまま流用したわけではない。冒頭の「都の西北…」の音列と末尾の「早稲田、早稲田…」の上がり下がりを踏襲したのが目立つけれども、「我らが日頃の…」から「…行く手を見よや」までは、おそらく鉄笛が新たに書き下ろしたものであることは間違いないだろう。
今回取り上げたいテーマの出発点だが、原曲ではほぼ同じ長さの3つの曲想がABCと単純に続いているのに対し、早稲田大学校歌では、イントロの歌い出しAに比べて、真ん中のBの部分が2倍の長さに膨らんでいる一方、フィナーレのC(早稲田、早稲田…)にあたる部分を鉄笛はオリジナルのほぼ半分以下にまとめている。この曲全体の不均衡な構造はなぜだろうか?
作詞がそうなっていたから増築したのだろう、という単純なとらえ方をする向きもあるやも知れぬが、「都の西北」がつくられた詳細な流れについては実は謎が多い。巷間、相馬御風が一気呵成に1番から3番まで書き上げて、閲した坪内逍遙が激賞し、わずかに「早稲田、早稲田…」の7句を書き足したのみ…という話は、どうも後世になって尾ひれがついた美談らしいのである。
これは、曲の構造やつながり具合、歌詞の主題や言葉に含まれるモチーフの切れ目、さらに参考にしたであろう「Old Yale」の内容と照らし合わせてみると、詞ができて即、鉄笛のところに回されて旋律が付いた…といった、そんな単純な流れでは説明しきれない痕跡が校歌の各所に、実は見いだされるからである。
むしろ、「Old Yale」のフィナーレを鉄笛がピアノで弾いたのを耳にし、これを「早稲田、早稲田…」とあてはめ、活用してカレッヂ・ソングに仕立てることを誰かが思い付いて(おそらく坪内逍遙か島村抱月あたり)、その指示なり示唆なりに従って、楽譜の音符に合わせて御風が(七五調などと比べて、詩歌の字数としては多少イレギュラーな)八七調で書いてみて、鉄笛がそれに曲をあててみて、ああでもない、こうでもない…と何度か手直しを続けて今の形に仕上がったのではないか。
本稿で取り上げるのは、その「増改築」のうち、東儀鉄笛が曲の構造をつくる上で、どのような発想や創造性を盛り込んだのか、という考察である。
「早稲田、早稲田…」と7回も連呼する破天荒な終わり方が、この曲の一つの特徴であるが(史上最強のコマーシャル・ソングと呼んだら校友に叱られるか…)、その役割が楽曲上の締め括り、つまりフィナーレであることはどなたも納得されよう。
話は飛ぶが、実は、フィナーレの扱いはどの国どの地域の文化でも同じというわけではない。
ベートーヴェンの「英雄」「運命」「第九」あたりから、ブラームス、ブルックナー、マーラーと独墺の名だたる交響曲を聴けばすぐに分かるが、序奏にあたる第1楽章から気張らし、休憩、一休みといった「スケルツォ」「アダージョ」(この順番は入れ替わることも多い)が第2・第3楽章で続き、おしまいの第4(時に第5)楽章は、変奏やフーガを駆使し、長さや内容においてそれまでの集大成となる壮大な音楽になるのが普通である。
これは大詰めの派手な戦闘シーンが見どころのハリウッド映画の盛り上げ方などにも共通する美意識だろう。
一方、日本の伝統芸能一般を考えると、こと長さで測る限り、フィナーレの簡潔さ、短さに比べてイントロ(話の発端)の長いこと、長いこと。で、中間部というのがはっきりと分からないうちに、突如、ストーリーが急展開を迎えるものが多い。
能「紅葉狩」では、山中で美女が舞い踊る宴会に貴公子が迷い込んでいい気持ちになっている話が延々と続くが、狂言方演じる神様の使いが「こやつらは鬼の化身ぞ、退治せよ」と夢の中で告げられたら、地謡「不思議や今までありつる女…」と雰囲気は一変し、シテ「維茂(これもち)少しも騒ぎたまわず」と刀を抜いて、あっという間に終わってしまう。
能から歌舞伎に移した舞踊「京鹿子娘道成寺」なんかもそうで、白拍子の舞をじっくり見せるのが趣向だが、釣り鐘が落ちて中から蛇体の姿で出てきて花道にかかると荒武者の格好をした押し戻しに止められて幕。歌舞伎を知らない子供や外国人なら、ここからダイナミックな大立ち回りで盛り上がらないのかと思うんだろうが、あっけないぐらい素朴な終わり方が日本古来からの美意識らしい。
これは音楽に限らず、古典落語の出囃子・マクラから「オチ」に至るまでの展開でも容易に感じ取れるもので、新作は知らないが、本題のあとで後日談が延々と続くなんて落語はない。
こういった日本の伝統芸能特有の構造は、「序破急(じょはきゅう)」と呼ばれている。すなわち、発端から大した波乱もなくだらだらと話が進んで行く「序」のうちに、突如今までの流れを変えて話が急展開する要素が示される短いエピソードが「破」で、続いてさっさとフィナーレを迎えるのが「急」である。
漢詩なら「起承転結」というのがあるが、日本の場合、「転」がやたら短くて、「結」もわりとあっさり目で、「起」から「承」への変化というか区別がきわめて曖昧。しかも「転結」に比べてやたら前の方に重きが置かれて、しかもやたらに長い。
さて、早稲田大学校歌である。元になった曲がほぼ同じ長さのABCという3つの要素で組み立てられているのに比べて、「都の西北」の中間部はどうしてこんなに長いのだろうか。大正・昭和の早稲田の音楽活動に深く関わり、校歌が世に知られるのに功績大であった前坂重太郎は、「我らが日頃の…見よや」の部分をトリオと解釈していたが、長さで考えるだけでもマーチの中間部みたいな単純なABAのBではあるまい。前坂はあくまでも西洋音楽の知識で「都の西北」をとらえようとして見誤ったのだろう。
凡庸な並べ方といったら怒られるが、「都の西北」は、同じメロディーの繰り返しを2回続けている。つまり、

みやこのせいほくわせだのもりに……A
そびゆるいらかはわれらがぼこう……A’
われらがひごろのほうふをしるや……A”
しんしゅのせいしんがくのどくりつ……A”
このあと、少し音程が上がって
げんせをわすれぬくおんのりそう……A”’

なんだ、また同じ繰り返しか、と思うと、突然、これまで歌われた音階のうちで最も高い音が乱打されて!!

かがやくわれらがゆくてをみよや……B

「ええッ!?」と驚いたら、もう締め括りに入って

わせだわせだ......…………………………C

と大団円になる。
つまり、ここまでの説明でお分かりになると思うが、「都の西北」の構造は、A(序)─B(破)─C(急)という日本古来の典型的な美意識でとらえることが可能なのである。
もちろん、作曲者の東儀鉄笛がどこまで意図的にこうした形にまとめたのかは、何の資料も残っていないので推測の域を出ない。だが、東儀鉄笛は単に西洋音楽の模倣だけで作曲していたわけではない傍証は数多く知られている。
瀧廉太郎みたいにプロフィールがはっきりしていたらよかったのかもしれないが、東儀鉄笛は同一人物かと疑いたくなるほど多芸多才な人だった。
もともと明治維新になって帝に付き従って東京に移り住んだ雅楽師の家に生まれ、家業(篳篥)をついで宮内省式部職で研鑽を積んだが、ケンカして廃業。ふてくされて今の獨協大学の前身で学校経営に携わっていたのを大隈重信に見いだされて早稲田で働くようになる。音楽を捨てたわけじゃなくて、坪内逍遙の脚本に作曲したのが日本で2番目に上演されたオペラ「常闇(とこやみ)」という作品。その翌年に手がけたのが校歌の作曲。その後、演劇の道に進んで、俳優としても活躍した。
音楽について、雅楽に詳しかったのは当然として、西洋音楽にも通じピアノを弾きこなしたという。また、邦楽全般に造詣が深く、日本音楽史に関する論文を何度か雑誌で発表し、それがライフワークだった。残念なことにまだ55歳で急逝したために、その業績はほとんど知られずに終わってしまったが、鉄笛が日本の伝統音楽について深い知識と理解をもっていたことは確かである。
明治時代は音楽教育が緒に就いたばかりで、レコードや放送と言ったメディアもないから、一般の人は半音階どころかドレミファソラシドさえ正確に歌えなかったという。だから、当時の唱歌や軍歌は長調なら「ドレミ×ソラ×ド」のヨナ抜き音階と呼ばれる単純な5音階で作られるものが多かった(4番目のファと7番目のシがないから四七=ヨナ抜き)。
そんな時代に、外国の曲を参考にしたとはいえ、校歌をドレミファソラシドの1オクターブ・7音階でしっかり歌わせる曲に仕上げた鉄笛には優れた先見の明が感じられる。その一方、「序破急」といった日本の伝統的な要素をもさりげなく含んでいる独創性は、もっと評価されて良いのではないだろうか。
早稲田大学校歌の成立過程については、未解明の部分が多いけれども、一つの問題提起としてお目に留めて頂ければ幸いである。

2011年3月6日日曜日

OB/OG向けのサービス一般と演奏活動との微妙な関係

 軽音楽系のサークルだと、順繰りに入れ替わる現役生の間で少人数のバンドが組まれて、そのゆるやかな「連合体」みたいな組織になっている。稲門祭みたいな卒業生の行事でも手の空いているOBバンドのいずれかが出演するので、全体を統括するような演奏団体のようなものは成立しないようだ。一方、合唱や中・大規模な器楽系のサークルの場合、卒業後も同じサークルの看板で演奏しようと人数や年齢層においても包括的な演奏団体ができやすくて、稲門グリークラブなどはよく知られたところだろう。

 音楽サークルのOB/OG組織やその運営を考える上で、功罪相半ばする面倒な問題となりがちなのが、出身者による「演奏団体」の存在である。これは主に、名簿や会費の管理、各種行事の主催など卒団生向けの業務一般との関わり合いにおいて噴出する。

 早混の場合、創立50周年を迎えるまで現役はもとより大学の校友会からも公認される正式なOB/OG組織がなかった。その原因や背景はさておき、先行して1990年代の始めに結成された早混OB・OG合唱団では、当初「自分たちの合唱団がOB/OG会の役割を果たしてはどうか」という声が挙がっていたという。稲門グリークラブの例に倣ってということだったようだが、卒業生の演奏団体がOB/OG会そのものになろうとすると弊害も多い。

 演奏団体-ここではOB・OG合唱団-にとっては、早混の卒団生イコールわが団の団員と定義づけてしまえば、練習や演奏会に参加する人材の確保も保証されるし、会費収入が活動へのサポートとして期待できる…等々、一見いいことずくめではある。しかし、肝心の演奏団体のやっている音楽活動がそれぞれのOB/OGが現役時代から育ててきた好みや関心と合致していれば良いものの、そううまい具合には行かない。それに当人の承諾もなしに「あんたは早混の卒団生だから、うちの団員です。参加ご協力を」と見も知らぬ人たちから一方的に言われたら反発をかうはずである。まして、地方や海外に在住していたり、仕事や家庭の関係で演奏会どころではない人間にまで演奏活動の費用だかOB/OGの管理業務だか現役の支援活動だか趣旨の判然としない金を要求するのでは杜撰すぎるだろう。

 結局のところ、創立50周年を機にOB/OG通信で当時の早混の会長名で記念式典を呼びかけ、その席上でOB/OG会の設立を提案し、その後、各学年の元役職経験者などに根回ししてほぼ全ての年齢層から了解を取り付ける形で早混稲門会が発足することとなった。それでも中には情報がしっかり伝わってなかったらしく、OB・OG合唱団の活動と稲門会の業務を混同したり誤解したりする向きがあり、説明に手を焼いたこともあった。グリークラブでも、合唱団とは別にOB会として名簿管理や広報物の発行を実施する形に改めたそうである。

 早混に限らず、卒団生の演奏活動で最大の難点は、数十年に及ぶ年齢層を幅広く網羅出来るような音楽シーンを継続的に作り上げることができず、結局、特定の世代が企画や選曲を独占してしまって、他の世代に総スカンを食うという失敗をやってしまうことだが、これについては別の機会に書いてみたい。

2010年12月30日木曜日

OB・OG会は年寄り向け……では困る

 12年前の創立50周年記念パーティー以来、OB/OG向けの大規模な行事に押し寄せるのは中高年が大半ということもあり、お相伴で飲み食いさせてもらった現役の間に「稲門会とかOB会って、おじ(い)さんおば(あ)さんのための組織なんじゃないの?」といった思い込みが広まってはいないかと心配している。名前はジェネラルだが、早混OB・OG合唱団だって1960年代の先輩方が中心になってやっていて、1970年代以降の早混人はほぼ皆無という状況だから、若い連中が「稲門会なんてオレたちには関係ない」と思い込んでしまうのも無理からぬ。


 50年史を手がけ、CDの選集を出したときもそうだったが、OB/OGがらみの活動に金を出しているのは大部分が年寄りなのだから、本の内容も音源の選曲も昔のものを中心にしろ…という注文をしてくる年寄りには手を焼いた。一方で、年長者の懐ばかりアテにするなとお叱りを頂くこともあれば、筆者の同期で役員だった男からは「卒団してまだ日の浅い若い連中ほど、今の早混に対する愛着は強いはずだから、彼らにこそ積極的に資金協力を求めるべきだし、それに応える義務が若手にこそあるのではないか」という“逆転の発想”(笑)に驚かされたものである。

 要するに、老若に関係なく、自分たちが出すいわれがないか、大義名分の乏しい金の無心には気乗りしないのは当たり前なのだろう。だから(早混人のノスタルジアを人質にとっているみたいな後ろめたさもあるのだが)年会費を出し渋る人からは本やCDその他の事業活動の対価としてお金を頂くようにして、不公平感の生じないように腐心することも戦略としては重要かもしれない。しばらく前の話だが、「50年史なんてどうせ年寄りの思い出話や自慢話を並べて若い連中に買わせようというのだろう。そんなものごめんだ」とか悪態をついていたらしい学年の話を耳にしたのだが、その後、結婚式の二次会か何かで誰かが「久遠のハーモニー」を持ち込んで回し読みしたら、一気に風向きが変わって、ひと学年で十数冊も申し込みが殺到したことがあった。編集長以下、特定の年代にのみ重きを置くような本にしないよう心を鬼にして原稿や資料を揃えたのが功を奏したのだと、小躍りして喜んだ次第。OB/OG会の活動は、本来かくあるべきものなのだと思う。

 「金を出すのは年寄りだけ」という仮説は、自分たちが主導権を握りたがる年寄りが意図的に言い募っている面もあって、実際はそうでもない。数年前のデータだが、早混の創立50年史を刊行するにあたって、本の購入ないし寄付をして下さった卒団生の在籍者に対する比率を各期・各学年ごとに集計したところ、極端に金離れのよい年と悪い年はあるものの、5~10才刻みの年齢層でみると、30代の卒団生と70代の卒団生とも、協力してくれた人の割合は大差なかったのである。もちろん、仕事や子育てに忙しい年代よりは、功成り名を遂げた年代の方が金額は多かったものの、実際に関心をもち、送金されたパーセンテイジはほぼ同じだった。だから、若い連中の意向をないがしろにして年寄りの顔色ばかりうかがうようなことを続けていたら、OB/OG会やその活動は早晩行き詰まることは明らかだ。若手や中年のOB/OGの意識を無視して、「どうせ、年を取れば自然と入ってくるさ」とタカをくくっていたら、「新人」のトシヨリには見向きもされなくなってしまったOB・OG合唱団の失敗を繰り返してはなるまい。

2010年11月14日日曜日

オケ合わせの風景

 今年は5月の「第九」に8月の「平和への祈り」と、奇しくも早混稲門会の関連行事で2度もオーケストラと共演することになった。コンサートホールで客席から本番のステージを眺めるのとは正反対に、練習も含めて裏側から大勢の器楽奏者や指揮者、コンサートマスターのやり取りを見聞き出来るのは、合唱の特権でもあり楽しみでもある。

 早混に入ってくる子で中学や高校の合唱部出身者は歴代腐るほどいるだろうが、さすがに管弦楽のバックで歌い慣れた子はいないみたいだ。12月の定期演奏会直前のリハーサルがオケ合わせの初体験という新入生が大半だろうが、楽器の音が大きいのに興奮して(笑)普段以上に声を張り上げてしまう失敗は、私たちにも経験がある。何度もステージに乗っているうちに、管弦楽付きの合唱曲でもア・カペラやピアノ伴奏のときと同じように普通に歌えば、ちゃんと客席では聞こえるようになっていると分かるのだが、晴れの舞台で舞い上がっている子供たちにそんなことまで考える余裕はないから、毎年毎年の選曲の結果とはいえ、いきなりの「オケの洗礼」は酷な気もしないではない。技術委員の立場からすれば、自分のところの練習に専念してほしいのが本音だろうけれども、オケ付きの曲でもちゃんと歌えるためのノウハウを身につけるには、オフ・シーズンに「第九」の助っ人などに出向いて、楽器と合わせる演奏ではどんなことに注意しなければいけないのか体で覚えさせることも、早混の技術水準を維持・発展させるには重要かもしれない。

 管弦楽と一緒に歌うときの注意点は、音量のコントロールだけにとどまらない。コーラスの伴奏経験が豊富なピアニストだと、楽器の方で指揮者や合唱に合わせて弾いてくれるから当たり前のことと気にも留めないらしいが、声楽と違って、器楽の世界では音を奏でようとするのと実際に想定したとおりの音が出はじめる間に、微妙なタイミングのズレが発生する。これは楽器の種類や奏者のくせによってもまちまちだから、アンサンブルの練習でも指揮者の棒振りでも、そうしたズレが出てしまわないように細心の稽古をするわけである。だから、楽器の指揮と合唱の指揮は、実は同じではないのだ。こういう小難しい違いは、オケと縁遠い大学の合唱サークルあたりにいる間はなかなか分からず、社会人がやっている玄人はだしのコーラスなんかでオケ付きの大曲など場数を踏むと自然と身についてくるものらしい。この点、早混は在籍中に何度も管弦楽と一緒に歌う機会があるから、けっこう恵まれている方なのだろうが、八尋先生の手元に全神経が集中しているためか、楽器の音を聴いて声を出すという訓練が十分整わないまま本番を迎えてしまう場合もあるようだ。簡単に言うと、同じ曲の中でア・カペラのところが恐ろしく揃っているのに、オケとの掛け合いになって微妙に音程が違っていたりすることがたま~にある。ピアノ伴奏に慣れていて楽器を聞く大切さをあまり意識していないからだろう。ボーカル・スコアのピアノ譜で、ところどころにその旋律を奏でる楽器の名前が略称で書き込まれているのは、今どのへんを演奏しているかという手がかりであるのはもちろんだが、音程の入りをチェックしたり、歌と同じ旋律を弾いている楽器に注意!という重要な「交通標識」でもあることを忘れてはなるまい。

 ちなみに、早混の定演で共演して頂いている東京バッハ・カンタータ・アンサンブルは、八尋先生の合唱中心の振り方や早混のくせを熟知しているから、先生が手を振り下ろし、声が出るのに合わせて楽器が鳴るように先回りして弾いてくれている。合唱の人間にはぴんとこないが、オーケストラと指揮者の世界では、手の動きにぴったり合わせて音が揃うよう要求し、演奏するのは超一流の楽団でも嫌がる極めて難しい技術なのだそうだ(故ゲオルグ・ショルティがこのタイプの指揮者だった由)。いわば完璧な「早混仕様」なのは有り難いのだが、オーケストラというのは合唱に合わせてくれるものなのだと思い込んでしまっては世間知らずもいいところで、現役たちのためにはなるまい。(最近は機会が減ったが)六連の合同曲や早稲田祭の奏楽彩などで、よその普通の管弦楽団と演奏するときは、器楽をやる指揮者の棒に付き合って、心持ち遅れて歌わないと揃わないはずである。そんな面倒なことまでしょいこむのはごめんだから、合唱はア・カペラに限るんだなんて仰る向きもあるだろうが、合唱が中心になってクラシック音楽が動いているわけではないことも事実である。早混の子たちは4年間のうちに色々な音楽シーンに出会って刺激を受け、卒業してからも様々な形・場面で音楽に触れて行ってほしい。

 

2010年11月11日木曜日

八尋先生が早混を変えてしまった…という虚構

八尋和美先生が早混の専任指揮者に就任されたのは1966年のことで、1970年の後期からご病気のために事実上、早混の指導を離れ、復帰されるのは1975年の後期からである。いわゆる「第一次八尋時代」「八尋大不在時代」と早混の研究者が勝手に名付けているこの10年間は、早混のレパートリーのみならず演奏会のスタイルや運営全般にも大きな変化が起こった時代だった。

これに直接の関連づけをして「八尋さんがオレたちの早大混声を全然別のものに変えてしまったんだ…」と半ば恨めしげにぼやく「石田・長谷川時代」(1958~65年)の卒団生の声を聞くことがある。1960年代の早混が遠い昔の姿になって、自分たちのやっていた音楽シーンを今の現役がちっとも顧みてくれないのは「ぜ~んぶ八尋さんのせい!」と言いたいのだろうが、早混を研究してきた筆者の見るところ、1970年をはさんだ前後10年の早混の変貌は、先生お一人の「仕業」ないし「業績」とひとまとめに責任転嫁できるものではない。(これとは逆に、「『昔の早混』は全くダメな存在で、八尋先生がお越しになってから早混は大きく発展した」という言説もまた、若い連中が欺されやすい真っ赤なウソである。団員数が激増して運営面が安定し、各パートにボイストレーナーの先生を迎え、共立講堂や東京文化会館といったプロと同じ会場が使えるなど、演奏団体としてのシステムが整ったのは「石田・長谷川時代」の最大の功績だった。徳川幕府を褒めそやしたいがために、信長や秀吉の役割を過小評価するのは素人が陥りやすい誤解である。むしろ、八尋時代が始まった頃の早混は、学園紛争の影響をもろに受けて、団員数は激減するし、路線対立は起こるし、演奏会の会場が使えなくなるは、同志社との交歓演奏会が2度にわたり中止に追い込まれるは、演奏旅行が出来なくなるは…と運営面では災難続きの10年だった)

確かに、交歓演奏会や定期演奏会といったレギュラーの演目に先生の意向が働いたのは事実だが、学生指揮者の選曲、日常の「愛唱曲」の取捨選択といった箸の上げ下ろしにまで八尋先生が口出しして早混を改造したわけではなかった。これは、当時の関係者に聞いてみれば一目瞭然である。(校歌の編曲を変えさせたり、豪華なプログラムに苦言を呈したり…といった話は、1990年代を下ったずっとあとのこと)

「今に通ずる『早混らしさ』は何時ごろから出てきたのか?」と言っては紛らわしいかもしれないが、初めて取り上げた作曲家や作品が、あとの時代でも歌われる「再演度」が大幅に上昇するのは1970~75年の「八尋大不在時代」からである。高田三郎やJ.S.バッハのように既に1960年代に登場しているものもごく僅かながらあるが、間宮芳生「合唱のためのコンポジションI」のように、「(つい最近の)今の早混にも選ばれる曲」は1970年代に入って圧倒的に増えてくる。あとの時代から見て、八尋先生がおいでになった当初よりも先生が不在の時期の方が「早混色」は急速に浸透したことになる。愛唱曲の大幅な入れ替えが断行されたのも同じ頃で、要するに、いちいち先生の指図があったわけではなく、学生たちが自発的に早混の姿を変革させたのである。

これには合唱や音楽に対する学生の意識の変化があってこその話なのだが、その背景には1960年代から1970年代にかけて大学やアマチュアの合唱団、特に日本の混声合唱を取り巻く環境が著しく様変わりした点を指摘しなければなるまい。

1949年に「早稲田大学混声合唱団」を旗揚げして最初に取り上げた曲はウェーバー「祈り」で、その後1950年代のレパートリーは外国の混声合唱曲や民謡などを編曲し、日本語の訳を付けたものが大部分で(シューマン「流浪の民」など今ではお手軽な愛唱曲になったが、当時の技術的水準では年に一度の発表会で披露する「大曲」だった)、邦人作品は皆無。1960年代の初頭になると、民謡・童謡や歌曲、あるいは既存の男声合唱曲を混声に編曲したものがようやく出てくるが(清水脩「月光とピエロ」など)、日本人の作曲家が最初から混声合唱を念頭に置いて創作した楽曲が出版されたり、方々で演奏される動きは、1960年代から70年代にかけてようやく顕著になってくる。それも、最初は互いに関連性が弱い単独の小品を集めた「合唱曲集」のようなものが中心だった(大中恩「わたしの動物園」など)。ところが、アマチュアの混声合唱団の活動が盛んになり、独自に演奏会を催すようになると、単なる小品づくしのステージではなく、テーマ性のはっきりした連作詩に複数の曲をあてて20~30分ほどの構成感のしっかりした中曲に仕上がった、いわゆる「合唱組曲」と呼ばれる作品群が登場するようになって行く。

こうした小品の寄せ集めから本格的なコンサート・ピースへの移行は、1960年代の早混でも明らかで、60年代前半の石田・長谷川時代の定演や地方公演では「愛唱曲集」と銘打ったMCつきのステージが必ず盛り込まれていたのが、第一次八尋時代になると一般客向けの地方公演だけにとどまり、定演では高田三郎「水のいのち」、三善晃「嫁ぐ娘に」、團伊玖磨「岬の墓」といった従来に比べて大規模かつ技術的にも比較的高度な日本人の作品が歌われるようになる。こうして、混声合唱を念頭に創作され、もともと日本語で作詩され、日本語を念頭に作曲されたオリジナルの作品が普及するにつれて、編曲というにわか仕立ての「擬似混声合唱曲」はレパートリーから急速に姿を消していった。

この流れは、外国曲でも同様だった。ロシア民謡、フォスター、黒人霊歌といった平易で親しみやすい旋律や映画音楽やミュージカル作品からアレンジした合唱曲は定演などのレギュラーな音楽シーンから駆逐されて、地方公演・お座敷・新入生演奏会向けの存在へと「格下げ」され、ポピュラー音楽ほか種々雑多な演目が賑わっていた石田・長谷川時代とはうって変わり、早混の売り物はルネサンスやバロックの宗教作品(オラトリオではなくミサやレクイエムといった典礼文)を原語で歌うスタイルが1970年代以降はメインとなっていった。このあたりの変化に八尋先生が陰で主要な役割を果たしていたのではないかといぶかる向きもあるのだが、先生が「第一次八尋時代」に早混で取り上げられた曲目を見ると、プーランク、ドヴォルザーク、ドビュッシー、コダーイ…と後の時代からは「早混らしからぬ」作品も数多く並んでいるのには驚かされる。先生の音楽遍歴も宗教曲一辺倒で塗りつぶされていたわけではない点に注意すべきだろう。

この時代、アマチュアの合唱団や学生たちが歌う曲を探したり、新しい曲に触れる「選択の機会」は、その幅が大きく広がりつつあった。1956年の第1回定期演奏会でショスタコーヴィチ「森の歌」を取り上げたときは、誰もレコード・プレーヤーを持ってないので(もちろん極めて高価だったからである)、皆で金を出し合ってLPレコードを買い、喫茶店に持ち込んでかけてもらったという話が伝わっているが、1969年にFMラジオの本放送が始まって、比較的廉価に良質の音楽ソースが供給されるようになると、クラシックの分野でも従来知られていた「名曲」以外にもルネサンスやバロック期の作品が数多く紹介されて、未知の合唱分野への関心が高まり、レパートリーの選択肢も爆発的に増えたのである。

既に取り上げられていたバッハに加えて、パレストリーナやシュッツなど、バロック期の諸作品を得意なレパートリーとするのは1970年代を通じての傾向だが、クラシック・ファンの間でも従来のウィーン古典派と初・中期ロマン派を中心とした作曲家にとどまらず、バッハ・ヘンデル以前の音楽への関心の高まりや、ブルックナーやマーラー、R.シュトラウス、シェーンベルク以降の近現代の作品への傾倒なども見られ、こうした流れに混声合唱も大きな影響を受けて演奏会に反映されている。

1970年前後の早混の変貌は、八尋先生お一人のご意向だけで説明できるものではない。当時の学生たちである諸先輩方は時代の動きに敏感で常に新しい音楽に関心を向け、トップ・ランナーたろうとして早混を育ててきた、と見るべきだろう。

2010年9月6日月曜日

早混の愛唱曲は捨てられる

 定期演奏会を世田谷区太子堂の昭和女子大学人見記念講堂で行うようになったのは、1985年の第30回から。当時、その前の郵便貯金ホール(港区芝・現在は「メルパルク・ホール」)の時代に渉外をやっていた先輩たちが、会場を変えると聞きつけて「そんなことをしたら自分たちの早混ではなくなってしまう。何とかやめさせることはできないか」と動揺し、憤慨した…という話が伝わっている。人見で定演を体験した25年間の世代には大きなお世話だろうし、郵貯より前の時期なら「いや[  ]で定演をやってこそ本物の早混だ。早く元に戻せ」とムキになって仰る向きもあるだろう(注:[  ]の中には、大隈講堂・共立講堂・東京文化会館大ホールなどが入る)。

 いつの時代の人間にとっても、自分たちが現役だった時代にやっていた早混こそ、懐かしい→正しい、理想の姿なんだと思考回路が出来上がっているわけ。演奏会の会場ひとつとってもこの騒ぎなんだから、ステージで何をやるかとか「HERZEN(愛唱曲集)」に何が載っているかなんて話になると、OBやOGの物の言い様は、もろ誤解やワガママのオン・パレード(笑)。

 CD10枚組の「早混・音の歩み」を製作した頃、長谷川博先生の時代(1961~65)に活躍された学生指揮者の方に「今でも現役生は『三つの民謡』を歌うことがあるのでしょうか?」と尋ねられて仰天したことがある。1970年代から現在に至る早混人は誰も知らないだろうから解説しておくと、メンデルスゾーンの無伴奏世俗合唱曲集の"Im Freien zu singen" op.41の2~4曲目を「三つの民謡」と呼び、吉田秀和の訳詞で1950年代の末からおよそ10年ほどの間、早混では愛唱曲の中の愛唱曲みたいな存在だった。今ならさしずめ木下牧子「鴎」(詞:三好達治)みたいな位置づけだったらしいが、愛唱曲の寿命は5年・10年が節目という宿命を免れず、1970年代に入った途端に「HERZEN」から削られ、あっという間に忘れ去られてしまいましたとさ――という話をすると、1960年代の先輩たちはひどくがっかりしたご様子になる。

 一度消えてしまったからといって、オレたちがあれほど夢中になって歌った、こんな良い曲なんだから、他の学年や現役たちもきっと喜んで一緒に歌ってくれるはずだ、現役のレパートリーとして是非復活してくれないか……というのは、無理な話。自分たちが使い慣れたフンドシは自分たちにしか締められないものだ。同じ早混でも5年・10年と時代が前後すれば、(流行とか世情とか要因は様々であるが)学生の音楽的意識も曲の好き嫌いも様変わりするからである。上述の「鴎」も若い子たちは好きで好きでたまらない…といった顔して歌っているが、去年、校友音楽祭の候補に挙がったときは、1960年代の先輩から「こんな地味でおとなしい曲のどこがいいんだ?」と怪訝な顔をされた。昔から、こんなことが繰り返されてきたのだろう。しかも、10年刻みの長いスタンスで徐々に変わるというよりも、わずか数年のうちに愛唱曲は陳腐化し、ゴミ箱行きになることすらあるのだから、現実は残酷というしかない。

 一例を挙げると、多田武彦「組曲・京都」収録の「ここが美しい、それは」(作詞:安水稔和)は、八尋先生の着任した1966年の学指揮ステージで取り上げられて以来、1970年代の前半には定演のアンコールで2度続けて歌われ、録音によると「私たちが日々、機会あるごとに皆で歌い、愛してやまない曲です」と紹介されているほどの愛着ぶりなのだが、それから3年ほどで「HERZEN」から消えている。筆者の勝手な憶測で恐縮だが、この曲がもてはやされたのは、学生運動が敗北と没落の末路をたどった時代と重なっており、その悲痛なまでの「滅びの美学」が先輩たちの心を揺さぶったものの、キャンパスが平静を取り戻すと急速に共感を得られなくなったからではないかと思う。

 版を重ねるたびに愛唱曲集から曲が削られるのは、事故や偶然で落ちてしまうのではないし、まして皆から惜しまれつつ姿を消すわけでもない。要するに、こんなもの歌ってないから、もういらない、他の曲と代えよう、と容赦なく捨てられてきたのである。「現役の愛唱曲集を見たら、オレたちの知らない曲ばかりじゃないか」と嘆くのは、別に50年前40年前の先輩に限った話ではない。筆者は30年前の現役だが、今の「HERZEN」で知っているのは、校歌(旧編曲)・紺碧(旧編曲)・栄光のほかは、「夜のうた」と「遙かな友に」「Ave Verum Corpus」だけ。また、若手のOB/OGから聞いた話を総合すると、卒業して10年もたてば、現役の音楽シーンと自分たちとの間にわずかながらもズレを感じるようになるという。歌っていた好きな曲が根こそぎ消えたとがっかりさせられるのは、いつでも誰にでもいずれは起こることなのだ。どれが残って、どれが捨てられるのかは、恐らく誰にも分からない。曲の生命力は、毎年受け継がれて行く歴代の早混によって左右されるからである。

 現役はもちろん世代を超えて早混人が皆で歌えるような「愛唱曲集」をつくってはどうか、との構想は以前からあって、7月の理事会でも要望が出ていた。スプリング・コンサートや新入生演奏会、フェアウェル・コンサートなどの記録を断片的に網羅して行くと、「三部作」以外に20年から30年の長きにわたって歌われていた曲というのは極めて少なく、磯部俶「遙かな友に」と佐々木伸尚「夜のうた」2曲で昔と今をカバーできる程度。いずれCDを付けて現役生向けにアンケートも実施してみたいと思うが、いくら長く歌われていても今の現役生が「こんなもの、いやだ」と拒絶反応が出そうな曲には慎重にならざるを得ないだろう。清水脩編曲による「そうらん節」「最上川舟歌」などは、1950年代の末から80年代の半ばまで演奏歴があるものの、今の若い子たちに「氷川きよしみたいな合唱曲」を付き合ってもらえるかどうか、自信はない。「昔の先輩たちが好きで歌っていたんだから、文句言わずに手伝え」と嫌々押し付けるような格好になったら、すぐにボイコットされるのがオチだろう。そもそも、いつの何を選ぶか、また、その選び方が難関だ。なるべく自分たちの時代の曲を多く入れさせようと方々でゴネられて「陣取り合戦」の様相を呈すればどうせろくなものにならないことは、団史やCDの選集を手がけていた頃にさんざん経験済みだから、特定の時代におもねることなく粛々と進めて行くのがベストだと思う。

2010年8月11日水曜日

オーケストラ・ニッポニカ第18回演奏会―「日本近代音楽館」へのオマージュ

 去る8月8日に日比谷公会堂にて開催。今までも稲門祭のときに2回ほど演奏してきたが、学外で早混稲門会合唱団の名前で活動するのは初めてとなった。

オーケストラ・ニッポニカ第18回演奏会
<「日本近代音楽館」へのオマージュ>
2010年8月8日(日) 東京・日比谷公会堂
深井史郎/ 大陸の歌 (1941/43)
伊福部昭/ 管絃樂の為の音詩「寒帯林」 (1945)
深井史郎/ 「平和への祈り」
- 四人の独唱者及び合唱と大管弦楽のための交声曲 大木惇夫作詞(1949)
↑今回出演作品

*ソリスト ソプラノ 佐々木典子・アルト 穴澤ゆう子・テノール 鈴木准・バス 河野克典
*合唱 Chor June、同志社混声合唱団〈東京〉及び早混稲門会合唱団を中心とする日本近代音楽館記念合唱団(合唱指導:四野見和敏・甲田潤)
指揮 本名徹次
管弦楽 オーケストラ・ニッポニカ
主催者HP

 今回の賛助出演の依頼は、校友音楽祭でご一緒している交響楽団の若手OBの方がニッポニカに所属されていたのが縁で、うちや同志社<東京>さんに話が来たのが始まりで、OB/OG通信などの呼びかけに応じて十数名が参加を申し出て下さった。

 瀧廉太郎、大中寅二といった歌曲の編曲物や早稲田大学校歌の東儀鉄笛は別として、主に戦前・戦中に活躍した邦人作曲家となると早混では全然縁がなくて、信時潔「いろはうた」を40年以上前に同志社とのジョイント合同曲でやったぐらいしか記録がない。もちろん深井史郎も小曲ひとつやったことがないらしく(1956年に盛岡で地方公演をした際、賛助出演した地元の放送合唱団が「青春讃歌」なる作品を歌ったとの検索結果が出ただけ)、今ではほとんど忘れ去られた作曲家による未知の作品に関心を持って下さったのは有り難いことだ。稲門会の方で100部ほど楽譜を印刷して音取り用のCDをつけて配ったが、結局本番は80名ほどになった。5月の第九のときも1割ほど辞退者が出たが、今回は冒頭が4分の6拍子で大詰めの二重フーガは8分の18拍子、調号を付けずに全部臨時記号だらけというボーカル・スコアに尻込みした人もいたのではないかと思う。もっとも、音取り用の音源を楽譜作成ソフトでこしらえて、音を出してみたら、大して難しくはなかったし、事前にニッポニカから3年前に蘇演した際の録音を提供されていて、実際にどんな曲なのか把握できていたから、勧誘するにも集めやすかったこともプラスになった。

 私事で恐縮だが、深井史郎の名前を知ったのは中学生の頃に岩城宏之指揮NHK交響楽団の演奏で「パロディ的な4楽章」の放送を観たのがきっかけ。その後、遺稿をまとめた「恐るるものへの風刺  ある作曲家の発言」(音楽之友社、1965年)を高校の図書館で見つけて、巻末の作品目録に「マイクロフォンのための音楽」とか奇抜な題名が並んでいる中に、「平和への祈り」という合唱曲があったが、まさか三十数年後に自分がこの曲を歌うことになるとは思わなかった。

 深井史郎に対する再評価は、オーケストラの側から色々試みられ、語られているが、今回、コーラスの視点から重要と思われるのは、この「平和への祈り」が邦人による本格的な混声合唱曲としてはかなり早い時期のものだからだ。この時代まで、ア・カペラやピアノ伴奏も含めて、混声合唱のための邦人作品というジャンルが出来ておらず(そもそも教会のコーラス隊以外に、演奏会を活動の中心とするアマチュアの混声合唱団など皆無だったから、需要も供給もないのである)、ましてや独唱と管弦楽を伴う大規模な合唱作品が創作・演奏されるなど滅多になかった時期なのだ。それに輪をかけて今でも鑑賞に値するような曲で演奏の機会は?となれば、今回の企画は邦人合唱音楽とその成立史を知る上でも極めて貴重な場となった。一般にアマチュアの管弦楽団は、ソリストの入る楽曲は敬遠気味で、特に合唱との共演はやりたがらないものだが(自分たちのステージが侵略されたような気分になるからで、こういった誤解・偏見はコーラスの方にも多分にある)、ここのオーケストラ・ニッポニカは声楽付きの作品の上演にも大変熱心で、7年前には信時潔「海道東征」(1940年)といった大作も取り上げている。技術的な面ではもちろん、作曲家と作品本位の真摯な姿勢をとる団体と今回巡り会えたことは、私たちにとっても有益な一歩としたいものだ。

 本番を間近にしてよんどころない事情が起きて、終演後のレセプションに出られなくなったのは、かえすがえすも残念だったけれども、幸いなことにマエストロはじめオケの皆さんは合唱の仕上がりを大変評価して下さったばかりか、稲門会合唱団や本体の早混に対して今後とも是非お付き合い頂きたいと関係されたスタッフの方からお話が来ている由。いやしくも「早混」を名乗る以上、現役(早稲田大学混声合唱団)の顔に泥を塗るような真似はできないと身構えて始めた練習だったが、オケ関係者はもとより、ネットの情報では聴衆からも好評だったようで、準備に携わった一人として大変うれしい。

 OB/OG会の提供するサービスとして可能な限り多くの会員のニーズに沿った企画や活動を心がけなければならないのはもちろんのことだが、いつでも誰でもできる名曲づくしの演奏会とは対照的に、母体である早混の底力や度量が外部で評価される今回みたいな賛助出演をやってみるのも長い目で見て悪い話ではないだろう。

2010年8月3日火曜日

「早稲田の栄光」いろいろ

 「早稲田の栄光」の歌碑が大隈講堂の時計台の真下に建立されたのが縁で、2008年12月の早混の定期演奏会には作詞者の岩崎巖さんが初めて来場された。曲が生まれてから50年以上も経つのに妙な話だが、今まで岩崎さんは混声合唱による「栄光」を聴かれたことがなかったそうで、早混が保管していた音源から旧編曲、現行版、管弦楽伴奏版など取り混ぜてCDにしてお届けしたところ、丁重な礼状を頂いた。会場の昭和女子大学人見記念講堂で演奏が一通り済んで、学生指揮者が岩崎さんのご来場を伝えるよりも前に「これから『早稲田の栄光』を歌います」と言った途端に割れんばかりの拍手が起こった。1957年頃からほぼ半世紀にわたり団内で愛唱され、主立った演奏会の最後には必ず演奏するほか、新演からフェアウェルまで混声の人間は「栄光」を歌って「栄光」で卒業しております云々の話はお知らせしてあったのだが、「待ってました」と声がかかりそうな会場の雰囲気こそ、岩崎さんには一番嬉しかったのではないかと思う。
 終演後、楽譜には「補作・西條八十」とある点についてお尋ねしたところ、当時創作に使ったノートなども残っていないので記憶は定かではないけれども、4番(早混では3番を飛ばして歌っているので紛らわしいが…)の「先哲の面影偲ぶ」の箇所は自分の手によるものではなく西條先生が書き加えられたものと記憶しております、とのことだった。いずれ、団の関係で再び出版物など出すことがあれば、この件についても記しておきたい。
 校歌研究会の懇談の折に聞いた話だが、晩年の芥川也寸志さんが「栄光」の楽譜を見て、これは自分の作品ではないと仰った由。グリークラブのOB筋によると、「栄光」をグリーが初演した際の練習には芥川さんご自身が立ち会ったそうだから、単にお忘れになっていただけのことだろう。ちなみに、応援部の資料によると、曲が完成したあとに作曲料を用意したところ「早大生が皆で歌ってくれれば十分です」と言って受け取ろうとはなさらなかったので、代わりに記念品を差し上げたそうである。数多くの学生歌の中でも「校歌」「紺碧」と並んで今なお愛唱され続けているのだから、作曲者さえ予想だにしなかったかけがえのない謝礼といえるのではないか。
 「校歌」ほどの混乱はないが、実は「栄光」にも版の違いみたいなものがある。
 早混と交響楽団で使っている楽譜は上記のもので、グリークラブに伝わっている作曲者の自筆譜によれば、これが本来の旋律らしいのだが、応援部の吹奏楽団の定期演奏会でアンコールにチアリーダーの面々とブラスバンドが合同で披露する「栄光」では、下のように歌われている。
 「うけつぎて」を全音下げると、素直で平明なイメージがするし、半音だとメロディーに「一抹の寂しさ」が少し加わって、音楽的には少し気取った「芸術的」な感じがする。どうして変わってしまったのかの経緯は不明だが、どっちが正しいかなどと目くじらを立てるほどの問題でもあるまい。
 また、グリークラブとコール・フリューゲルが歌っている男声四部合唱だと、曲のおしまいに下のような「コーダ」がついている。これは、グリークラブのOBの方に尋ねてみたら、もともとはなかったけれども、こうしたらカッコいいじゃないかと、いつの頃からかやり出して、いつの間にか定着してしまったそうだ。早混や早稲オケの感覚ではオリジナルの作品に勝手に手を加えるなどとんでもないところだが、編曲や改変には寛容なグリークラブらしい。以前に校歌研究会で、「都の西北」の調や速さはどの程度まで許容されるかについて、交響楽団とグリークラブの間で大きく意見が食い違ったときのことを思い出した。

2010年7月27日火曜日

客席のマナー違反とその傾向

 漫画「のだめカンタービレ」(原作:二ノ宮知子)が評判になって、オーケストラなどプロの演奏会に客が増えたのはよかったが、主催者を困らせたのは、マナーを知らない新参者がトラブルを起こすようになったことで、演奏中も喋ったり、物音がやかましいのがいる一方、これに過剰に反応してケンカになり、係員が飛んでくる…といった事件が何度かあったそうである。
 ずいぶん前の早混だが、ある年の地方公演で最前列に陣取っている母子連れがやかましく、挙げ句の果てに退屈したのか子供が舞台に上がってきて、たまりかねた八尋先生が演奏を途中で止めて子供を抱きかかえて客席に戻し、叱り付けた…という話が伝わっている(録音も残っているが、さすがにこんなものは出せない)。
 サントリーホールなど訓練を受けたフロア・アテンダントが常駐しているところだと、騒ぎを起こす者はもとよりカメラ小僧や「飲食犯」まで事を荒立てずに処理してしまうが、予算の少ない公営の施設だとその種の対応が甘くて、結果、不愉快な思いをさせられることも少なくない。
 演奏中に私語を交わす手合いというのは、クラシック・ファンが故意にやる確信犯は滅多にいなくて(よほど演奏がひどい場合は別)、大半は、この種の催し物は初めてという素人が危ない。他人に迷惑をかける気はなくても、スポーツ観戦や歌謡ショーあたりと同列に考えているらしく、叱られなくても周囲の視線に気がついて次第に大人しくなる。プロのリサイタルや定期演奏会、あと早混の定演など学生の音楽サークルには出没しないが、社会人、それも出演者に中高年の多いアマチュアの団体がからむコンサートは注意報や警報ものである。つまり、家族や友人など親しい相手を厳選してチケットを配る若手とは異なり、金に糸目を付けない「旦那芸」と化したおじさん・おばさんたちになると隣近所はもちろん取引先や飲み屋の知り合いとか、手当たり次第にばらまく傾向があるからで、その分、クラシック音楽も演奏会のマナーも知らない素人が紛れ込む危険性が高まるわけである。
 逆に、学生の音楽サークルが主催する演奏会によく出没する「迷惑お化け」は、一にOB(OG)、二に「(チケット交換で入ってくる)よその学生」だろう。
 稲門会の役員をやる前の話だが、人見の2階席で早混の開演を待っていたら、前の方で「同業者」の学生らしい数人がやかましくて、やれうちの方が早混より上手だの、格は上だのと生意気なことを言ってる。演奏が始まってもべらべらやってるなら貴様ら学生証を見せろと叱り付けてやろうかと考えているうちに静かになった。最近も、休憩中に稲門会の受付で見ていて面妖なのは、前半だけ見てアンケートを出して足早に会場を去る若い連中がいることだ。現役に聞いてみると、昔と違って今のチケット交換というのは、よそから受け取った入場券を部室に並べといて各々が面白そうなところへ自由に聴きに行く、人気がないところは残ったまま…というのではない由。交換したら、お互い何人ずつ行きますという約束ないし暗黙の了解があって、余れば下級生などにノルマを割り当てて、確かに来ましたよとアンケートに所属団体の名前を書いて帰るんだそうだ。客の入りが悪ければ公共の施設でも翌年から利用を断られてしまうこともあるから、観客動員力を維持するための互助会みたいな仕組みなのだろうが、興味や関心もないのに嫌々聴きに行ったり来たりするなら、モラルは低下するものだ(上述の旦那が配るチケットと似ている)。
 一方、OBやOGが現役の演奏会にお出ましになると、身内意識というか、自分の家みたいな感覚が悪い方向に向かって、よそでは出来ないような傍若無人な振る舞いに至ることもある。筆者が現役の頃、会場が混雑しているのに憤慨し、OBに招待席も用意できないのかと受付で怒鳴り散らしたアホな卒団生がいたそうだ。そこまでエスカレートしなくても、客席で周囲の目を気にせずに「俺たちの方がうまかった」なんて偉ぶった感想を並べている人々は意外とおいでのようだ。終演後に酒席で何を抜かそうと勝手だが、出演者の家族や友人はもちろん、他の卒団生も多数来ていて、誰が何を聞いているかも分からない場所で、関係者に不愉快な思いを抱かせるような言動は慎むべきだろう。(「自分たちが一番うまかった」と言い放つOB/OGの自慢話は真に受けないのが賢明である。大体、自分たちが入団するよりも前の早混はもちろん、卒団したあとの早混までこまめに聴き続けている者などほとんどいないはずである。自分たちより優れた演奏があっても、それを知らないか、曲の好き嫌いや演奏スタイルの違いから「他の早混」の良さを認めようとしないだけの話なのだ。自画自賛ではなく、見知らぬ世代からも評価され続けている演奏や録音こそ本物の名演だろう。)

2010年7月23日金曜日

追悼演奏

 ここで取り上げる「追悼演奏」は、所謂「追悼演奏会」とは別のものである。
 追悼演奏を行うのにはいくつか種類があって、大規模な災害や要人の逝去など、主催者とは直接関係のない不幸な出来事であっても社会的に大きな衝撃を与えた凶事に対して演奏会の冒頭にその旨を観客に伝え、亡くなった人(々)への追悼の意を表してプログラムとは別に演奏を行うのが一つの儀礼として定着している。
 卑近な例では、1995年1月に阪神・淡路大震災が起こったときには、東京でも2月頃に開かれたクラシックその他の演奏会では犠牲者に哀悼の意を表するとして、追悼演奏が行われていた。特別な事情がある場合に、出演者にとっても観客にとっても感情として知らん顔をするのが憚られるものがあり、娯楽の場であっても気持ちの整理をする意味もあるのだろう。アナウンスないし出演者が口頭により追悼演奏を行うことを伝え、演奏後に黙祷を行うので、拍手は控えて欲しいと一言添える。これをうけて観客も拍手をしないのがマナーである。
 主催者側、特に出演者の希望で行われるのは、関係者、たとえば指揮者やその団体と縁の深い音楽家が亡くなった直後の演奏会などで追悼演奏のステージを設けることがある。かつてウィーン芸術週間の最中にソヴィエト・ロシアの作曲家ドミトリイ・ショスタコーヴィチの訃報が伝えられたときには、作曲者に演奏を絶賛されて親交の深かったレナード・バーンスタインがウィーン・フィルを指揮して交響曲第5番の第3楽章を演奏した。取り上げる作品は必ずしもレクイエムといった葬送のための楽曲でなければいけないといった習慣上の制約は特にないようである(むしろ、イデオロギーや宗教・宗派の違いを越えた追悼を希望する意味での配慮もあるかもしれない)。
 早混でも以前に団員が交通事故で亡くなったときには舞台袖に遺影を飾ったり、プログラムにその旨の記載をするなど、演奏という形に限らず、しかるべき措置を執り行ったことがある。縁起でもない…なんて叱られそうだが、普段と違う出来事には何をするのか知らなかったばかりに恥をかいたり関係者に嫌な思いをさせてしまうよりも、「有職故実」をしっかりと書いたり伝えたりする方に意味があるのではないだろうか。
 2003年5月に同志社学生混声合唱団を長く指導していた榎本利彦先生が亡くなられて、翌月東京で交歓演奏会が開かれた際、東混の同僚として親しかった八尋和美先生は早混のステージでJ.S.バッハのモテットを指揮される前に榎本先生の逝去を伝え、追悼演奏としたい旨のスピーチをされたことがあった。1970年代から1990年代にかけて早稲田・同志社のジョイント・コンサートではお馴染みの方だったから10年以上前に退任されていたとはいえ、東京のお客さんにも追悼の趣旨は理解されたことと思う。ただし、少し残念に思ったのは、同志社の現役からは何のアクションもなかったことで(もちろん7月にはOB・OG会による追悼行事が京都で開かれている)、時間的な制約もあり追悼演奏どころか何をどうしてよいものか頭もまわらなかったのだろうが、ロビーに告知の文面を張り出しておくだけでもできなかったものか。現役生にそこまで期待するのは無理なのかもしれないが、「卒団生の皆様、ぜひ演奏会にお越し下さい」という言葉に気持ちがこもっているかどうかは、こういったemergencyで試されるものである。

2010年6月10日木曜日

早稲田大学校歌の正しい歌い方・その3

 1907年に作詞・作曲された時の3番の歌詞は「あれ見よしこの…」だったのが、なぜか大正期になると「あれ見よしこの…」に変わってしまった話については、いずれ稿を改め自説も交えて取り上げてみるとして、ここでは元々は「あしこ」と作詞されていたのが今では「かしこ」で通っているけれども、「あしこ」も間違いではないと記すにとどめる。

 公式に認められている校歌の原典は2種あって、一つは作曲者の東儀鉄笛自筆譜と前坂重太郎校訂による早稲田マーチであるという話は前にしたが、現在、大学で配布されている「早稲田大学歌集」はどちらによるものなのか?となると、実は両者の折衷型で、歌集にはちゃんとした解説や指示が書かれていないため、戸惑う新入生も多いのではないかと思う。1番「久遠の理想」2番「理想の影は」3番「空もとどろに」の楽譜と歌詞の譜割は歌集では次のようになっている。


 2番の「理想」が現在では歌われていない形なのに加えて、2分音符にカナ2つという明治・大正期の歌に見られる曖昧な分け方をしているのに、鉄笛自筆譜の付点4分+8分の楽譜を貼り付けているのだが、これだとどこをどう歌えばよいのか、かえって分かりにくい。それぞれの楽譜を比較するとこうなる。上が自筆譜、下が早稲田マーチである。

 つまり、音符は早稲田マーチの楽譜を基本として部分的に鉄笛自筆譜で補っている一方、歌詞は1番が早稲田マーチ、2番と3番は鉄笛オリジナルの譜割を合体させている。編者は両者の歌いやすいところを重ねる意図でこうやったのだろうけれども、1番の早稲田マーチでは「ん」をどこに持って行けばいいのか判然としないし、2番では折角前坂重太郎が歌いやすく手直しした「りそう」の歌いやすさが元の不自然な譜割に戻ってしまっている。3番は早稲田マーチでは行き場のなかった「も」の扱いを鉄笛の楽譜をあてることで分かりやすく処理しているので、これは評価して良いだろう。まとめてみると、1・3番は鉄笛オリジナルの譜割の方が分かりやすく、歌いやすいし、2番は早稲田マーチの方が自然である。

 下記の楽譜は1つの提案。「2番は下の音符で歌うこと」とか注を入れたらよいのではないかと思う。

2010年6月9日水曜日

早稲田大学校歌の正しい歌い方・その2

 校歌研究会の会員だったおかげで、創立125周年の2007年秋には、資料展のパネル展示の原稿を書かせて頂いたり、楽しい思いをずいぶんさせてもらった。その中に、学内誌の原稿チェックの依頼があって、丹念にチェックしたのはよかったのだが、自分のところに回ってこなかった部分で2番の歌詞に触れた下りで「一つに渦巻く大国の…」と出てしまって、担当の方も恐縮しておいでのようだった。日露戦争に勝った後とはいえ、校歌が作詞された1907年は「東亜の新秩序」だの「大東亜共栄圏」などという忌まわしい発想は唱えられていなかった時代で、校歌の「だいとうこくの大なる使命」は「大島国」、つまり日本列島と周辺の島嶼のことで、特に侵略主義的な思想を鼓吹するものではない(変なナショナリズムにかぶれた今どきの学生だと却って勘違いしそうで困るのだが…)。校歌研究会では大隈侯晩年の主張であった「東西文明の調和」に焦点があてられ、久しく関心がもたれなかった2番の歌詞の重要性について新たな話題を提供したが、これについてはいずれ別の機会で触れてみたい。

 本題に入るが、歌い方で問題となるのは、1番と同じく「やがても久遠の理想の影は」である。作曲者・東儀鉄笛が1907年に記した譜面では、下のようになる。


 この「りーそうの」という譜割は、現在では応援部で継承されて残っているものの、一般には次の形になっている。これは、1915(大正4)年に前坂重太郎が作曲者自身の指導のもと、校歌の伴奏と和声を含む編曲譜(所謂「早稲田マーチ」)をつくった際に訂正したものとされる。


 これは「その1」でも触れたように、3文字目を伸ばすという邦楽の伝統的な歌唱法に即したもので、「りーそお」ではなくて「り・そ・おー」の方が歌いやすいから、適切な改変と言える(どうせ変えるなら、1番の久遠も大正4年に一緒に直しておいてくれたらよかったのに…)。

 2007年の125周年記念演奏会で早混、グリー、フリューゲル、早合の連合軍が交響楽団と一緒に校歌を披露したときも怪しかったが、最近でも校友会の寄付講座などで新入生が校歌を歌っているのを聴いていてぎょっとさせられるのは、1番の久遠の歌い方を入学式の歌唱指導などで「くーおーんの」とうるさく仕込まれるのが逆に災いして、きちんと教えてもらっていない2番の久遠をこんなふうに歌ってしまう現役生がけっこういるらしいのである。


 これは、作曲者自筆譜、「早稲田マーチ」改訂譜のいずれとも異なる明らかな間違いである。もともとグリークラブの男声合唱版でも早混の旧旧・旧編曲でも2番は飛ばすから、公式な場で2番をちゃんと歌う機会がない。原調のニ長調により器楽付きの伴奏譜に基づいて1番から3番まで斉唱でも歌えるようにしておいた方が良い。学内各合唱サークル、特に非インカレ系の伝統を誇る3団体の責任は重大である。

2010年6月7日月曜日

早稲田大学校歌の正しい歌い方・その1

 早慶戦の晩など、学生の騒動防止のため歌舞伎町界隈に大学から警戒・指導に出向くのが常だが、「おまえら本当に早稲田の学生なのか?本物なら『都の西北』を1番から3番まで正しく歌ってみろ」とけしかけてみると、ちゃんと歌えた学生に出会ったためしがない…と知人の早大職員がこぼしていた。

 2番・3番の歌詞がうろ覚えなのはもちろんのこと、2番半ばの譜割がいい加減なのがほとんどなのだが、恥ずかしいことに、2007年の早大125周年の記念に第九を演奏したときのアンコールで1~3番を通して斉唱したら、ものの見事に全員で2番の歌い方を間違えていた。どうせ練習もろくろくしなかったのだろう。校歌シンポジウムをやった翌日にこれだから、さすがに腰が抜けた。

 まず1番で「現世を忘れぬ」に続く「久遠の理想」の旋律だが、東儀鉄笛の自筆譜に基づいて1907年の創立25周年記念の行事で配られた楽譜では、次のようになる。

 学校が出している「早稲田大学歌集」には正しい譜面が載っているのに、講談社「日本の唱歌(下)」や野ばら社などから出ている楽譜だと次のようになっていて、これは公式の典拠に基づくものではない明らかな誤例だが、誰も訂正を申し入れていないらしく、未だに出回っている。
 「ミファソーファミ…」と歌うべきところを、「ファ」を抜かしてしまうのには訳があって、明治期の唱歌や軍歌の類は、ドレミファソラシドを全部使ったメロディーである7音階ではなく、江戸期以来の民謡や俗謡に多く見られる5音階、すなわち長調ならファとシの4・7番目を省いた「ヨナ抜き音階」と呼ばれる音階で作曲されているものが多かったため、聞き覚えと口伝えで歌われて行くうちにファ抜きで歌っていたのがそのまま採譜されたらしいのである。入学式の歌唱指導では正確に歌わせているので、現在の学生はこの種の誤りをしている者はいないみたいだが、念のため。

 下の歌い方は、恐らく大正期から1950年代の中頃まで外部ではもちろん早大関係者の間でも広く歌われていたもので、間違いというよりも「都の西北」が俗謡として「変形」したヴァリエーションと言ったほうが適切かもしれない。
 これは、金田一春彦が「日本語」(岩波新書)や「日本の唱歌(下)」(講談社文庫)でも指摘しており、次のように解説している。

これは作曲者の東儀が、「オン」は一息で一音なのだから下の譜のようにしてはまずいと思ったのであろうが、日本語では「オ」と「ン」がそれぞれ一音で、相馬も「クオン」全体を三音と数えて作詞したのだから下の譜の方が日本語の性格には叶っているというべきである。(日本の唱歌(下)48頁)
 少し補足すると、おそらく東儀鉄笛が「まずい」と判断したのは、西洋音楽では「ン」は母音ではない、分かりやすく言い換えると「ン」で伸ばす歌はないからである。これに対して、日本の伝統音楽では「ん」で引っ張る歌は特殊ではない(学術的には、「『ん』を準母音として扱う」という)。加えて、日本の歌には3文字目で伸ばすという特徴があるため、口承で広まった過程で自然に変わってしまったらしい。楽譜や音源によって歌唱指導をしていたならば、こういう歌い間違いは発生しなかったはずである。3番の歌詞で「あれみよあしこの」が「あれみよかしこの」と変わってしまったのも、この口承が重要な原因というか役割を果たしているのだ。(この記述は、藍川由美「これでいいのか、にっぽんのうた」(文春新書)180頁の瀧廉太郎「花」に関する指摘から重要な示唆を得た)
 
 上記の「くおん~の」という歌い方は、1950年代の末に東儀鉄笛の自筆の楽譜が「発見された」(*)のを機に、学内で本来の正しい楽譜に基づいて歌おうという動きが高まり、現在では、年配の校友でもない限り、「ん」を伸ばして歌われることはなくなった。
 
*戦前も東儀家に保管されていることは知られていたのだが、その後のどさくさで忘れられていたようである。大学史資料センターの学芸員の方によると、自筆譜は昭和初期に大学から戻ってきたときの封筒にそのまま入れられていて、切手と消印が押されていた由。

2010年6月6日日曜日

編曲の文化

 昨年、早稲田大学マンドリン楽部のOB/OG会の会誌に寄稿を依頼されて、考えた末に「マンクラさんの特徴は編曲の文化が伸張していることだ」と分かったようなことを書いてお茶を濁してもらったのだが、早混が取り上げてきた音楽の変遷をたどると、編曲がかなりメジャーだった時代とそうでない時期というのがはっきり分かれているようだ。
 旧8号館の部室に残されていたオープン・リールの音源の中に1960年代の六連の模様を収めたものがあって、玉川大学とか今とは異なる加盟団体の演奏も聴けるのだが、当時は邦人作曲家によるオリジナルの混声合唱曲(特にコンサート・ピースとしての合唱組曲)がまだ萌芽期にあり(東混の委嘱・初演作品では佐藤眞「旅」とか三善晃「嫁ぐ娘に」など、のちの時代にも広く受け入れられる作品は出つつあったが)、大学の混声合唱団が取り上げるのはまだオリジナルの作品はきわめて少なかったようだ。
 例えば、1958年の定期演奏会のアンコールではシャブリエの交響詩「スペイン」をそっくり混声とピアノにしたてた編曲が歌われたり、60年代後半でも玉川の六連個別曲ではヨハン・シュトラウスのポルカが混声に化けたりしている。「流浪の民」のようにオリジナルの作品をそのまま訳詞にして取り上げているなどクラシックの作品の流用や移植以外には、フォスターその他の世俗曲や外国の民謡などの編曲が一般的で、訳詞の不自然さを我慢しながらぎこちない歌い方をしているのが興味深い。
 これが1970年代になると、高田三郎、大中恩、三善晃、團伊玖磨など邦人作曲家や作品において選択肢が広がってきて、旧来の編曲物はすっかり影を潜めるようになる。このあたり、早混のレパートリーが大きく変容する時期と重なっていて、我々の団の歩みを知る上で重要なターニング・ポイントになる時期と言ってもよい(いずれ、詳しく書いてみたいと思う)。
 オリジナルの楽曲を優先して、編曲に重きを置かないのはクラシックを専ら取り上げる早混や交響楽団では顕著なようで、これに対してジャズなどの軽音楽系の世界ではアレンジ自体が一つの重要な要素を占めている。SATBなど編成が固定しているわけじゃなくて、実際に確保できるメンバーの楽器によってその都度、編曲を用意しなければ演奏が成り立たないというジャンル自体の内在的な要因があるわけだ。
 グリークラブの場合、編曲かオリジナルかという分け方においては、かなり柔軟な意識があるようで、マーラー「さすらう若人の歌」を男声合唱に仕上げたり、様々なジャンルから男声合唱の魅力を生かすようなアレンジを試行錯誤する一方で、清水脩「月光とピエロ」や多田武彦の一連の作品など男声合唱を想定して創作された楽曲にも強みを発揮している。
 早混の場合、第2次八尋時代以降はレギュラーの演奏会で編曲物をメインにすえるどころか、ほとんどオリジナルのもので固めるのが通例となっていたが、この数年、六連の個別曲で若林千春氏を始めとして、もともと合唱とは縁の無かったジャンルからの編曲を積極的に取り上げるようになったのは、一つの大きな変化と言ってよいだろう。昨年の「だんご三兄弟」みたいに、オリジナルの色彩を一切消し去って別の風景を描き出そうとする若林氏のスタンスには必ずしも賛同しかねる点もあるのだが、オリジナルの合唱曲だけでは知ることのない異次元の音楽に理解を示そうとする姿勢は、早混の音楽づくりに良い刺激となっているのではないかと思う。「早混の伝統が汚れる」とかケチな言い方はしないほうがよかろう。

2010年6月5日土曜日

往時は名物だった「早稲田の第九」

 2007年10月の創立125周年記念行事の一環として、記念会堂を会場におよそ12年ぶりに交響楽団と学内の合唱サークルが合同でベートーベンの交響曲第9番が演奏されたのも記憶に新しいところだが、1957年から1995年までの約40年間、早稲田では1年おきにクラシック系の音楽サークルが第九交響曲を披露するのが恒例の行事となっていた。
 1957年に今の記念会堂が竣工した記念として、当時の学生部長だった滝口宏教授の肝いりで始められたのだが、当時は女声の確保に苦労し、学内の合唱サークルはもとより女子学生に個人的にあたったほか、玉川大学の応援を得たのは各種資料に詳しく出ている話である。当日の進行表が残っていて、エキストラの玉川がスタンバイする時刻の他、「N響入り」という記述があって、おそらく特殊楽器など学生では手の足りなかったパートの補強として来てもらっていたのではないかと推察される。
 この手の話は大学の資料やサークルの会誌では触れられないところで、ついでにもう一つ紹介しておくと、このときの演奏が日本史上初めての学生による第九だという触れ込みになっているのだが、筆者が調べたところでは、1949(昭和24)年に仙台で東北大学の音楽部が金子登の指揮で演奏しており、これは第九の「東北初演」だったということになっている。おそらく合唱(特に女声)に関しては職員のコーラスや外部の団体の応援を得て挙行したのであろうから、学生の第九の第一号は早稲田と名乗って差し支えはないと思われるが、若干微妙なところでもある。
 話を戻して、1957年の早稲田で最初の第九は、日本楽器(ヤマハ)が試験的にステレオ録音をとっていて、あとで銀座の本店で披露したという話を複数の関係者から聞いている(ラジオのニュースでも音声が紹介されたそうである)。残念ながらテープは残っていないらしい。筆者の知るところでは、フロイデハルモニー(早稲田の第九)で最古の録音は1962年に東京文化会館で当時、「N響事件」の渦中にあった小澤征爾が指揮したときのもので、マスターは未だに行方不明だが、関係者に配布された孫コピーのテープを保管していた早混の先輩がいて、デジタルに複写したものを大学史資料センターに寄贈した。学芸員の方からは「早稲田から記念で出せませんかね」と言われたことがあるのだが、ソリストが複数のレコード会社の専属になっているほか、小澤征爾は、自分の若い(つまり、本人から見て「未熟な」)時期の演奏の復刻にはNGを出しているそうなので、残念ながら公にはできないだろう。薫陶を受けたミュンシュやバーンスタインを彷彿させる、軽やかな曲の進め方がいかにも小澤らしい演奏だった。

2010年6月4日金曜日

若林千春版の編曲をめぐって

 現役が定期演奏会で歌っている校歌の新編曲がつくられたのは1994年のことで、「変えるにあたって何か理由か経緯でもあったのか?」と年長の先輩から聞かれることがあるのだが、この年は創立○○周年とかキリのよい数字でもなかったし、特別な祝い事も思い当たらない。要するに、八尋先生が「校歌の編曲を新しいのにしたい」と言い出したから、現役の方も深い考えもなく変えてしまっただけ、というのが真相のようである。
 この頃はOB/OG会はもちろんのこと、卒団生向けの本格的な活動や行事なんてなかったから、八尋先生や現役にしてみれば校歌の編曲は自分たちのためのものでしかなかったのだろう。前の編曲に永年慣れ親しんでいたOBやOGがどう受け止めるかなんて、思い至る者もいなかったらしい(新しい編曲を先輩たちにも歌ってもらえばよいなんて言うのもいるかもしれぬが、未だに早混OB・OG合唱団は若林版を歌う気配さえ見せぬ<笑>)。OB(OG)の現役に対する影響力が強すぎて、箸の上げ下げまで口出しされているサークルだったら、まずこんなことは起きなかったのだが(グリークラブでは校歌の速さを変えただけでOBが血相変えて怒鳴り込んでくるそうである)、旧世代の先輩たちは曲想の余りの変わりように激怒した由。
 1964年に旧旧バージョンの「戸田版」を廃止して「長谷川版」に変えたときも部室に怒鳴り込んだ先輩がいて(本人から直に聞いた)、今回も八尋先生に「何で変えてしまったんですか!」と詰め寄ったそうだが、先生は黙っていたそうな。ご本人が仰らなくとも大体の察しはつく話で、第3代専任指揮者の長谷川博先生(1961~5)の時代に校歌の編曲が変わったのも先生直々のお達しによるものだった。前の「戸田版」は学生が手がけたものだから和音の処理などに誤りがあるから…といった解説をする向きもあるが、これは戸田さんに失礼な話で、戸田さんが和声学を習っていて当時は東京芸大の先生だった作曲家の石桁眞禮生(1916~96)にチェックしてもらって最終的なOKをもらったので、音楽理論上間違っているわけじゃないそうだ。
 編曲の和声なんかを自分好みにこっそりいじりたがるのは技術委員でも同じらしく、早混50年史の取材で発覚したのだが、「紺碧の空」と「早稲田の栄光」の混声版の編曲は、10年ちょっとの間に、何者かが(歴代の学生指揮者あたりに犯人がいるらしい)印刷のたびに極秘に手を加えていて、とうとう編曲者の川崎祥悦先生から「無断で変えられている」と抗議される羽目になった(1979年のことで、早混稲門会が校友音楽祭で使う楽譜は、このときの訂正版を採用したのだが「自分たちの歌っていたのと音が違う」と言われて、毎年説明するのが億劫でならぬ)。
 話を戻すと、八尋先生が校歌の編曲を変えさせたのは、今や早混の隅々まで八尋色が行き渡っているのに、玄関に鎮座している立派な置物が大昔の前任者の作というのが永年、お気に召さなかったのだろう。言うならば「のどに引っかかった最後の骨」に手を出したわけだが、さすがに30年も使い慣れていた長谷川版を即座に廃止できなかったのは誤算だったかもしれない。六連の定期演奏会で歌うときは時間の制約もあって長谷川版だし、レセプションの始まりや神宮で歌うときも清楚な響きの若林版じゃ威勢が上がらないと敬遠されているようだ。
 若林版にアレルギーを隠さないのは石田・長谷川時代以前の旧世代の先輩方に多いが、早混OB・OG合唱団の人でも「実は、個人的には好きです」という隠れキリシタンはいる。第2次八尋時代(1975~)でも20年近く長谷川版だったから、賛否両論あるのは当然として、ルネサンスやバロックの宗教音楽にシンパシーのある人には若林版は意外と人気がある(筆者の同期にも「現役のときにこんな校歌を歌いたかった」と言ってる者がいる)。
 外部の反応はもっと面白くて、うちの定期演奏会に招待されたグリークラブの人が激怒して、とある酒席で「混声には校歌を歌わせるな」と息巻いて周囲の人が止めに入ったことがある(笑)。一方で、校歌に関しては本家本元と言って過言ではない早大応援部で吹奏楽団の指導をしている人や交響楽団の顧問の方からは「混声合唱の特色を生かした良い編曲だ」とお褒めの言葉を頂いた。「オーケストラみたいでイヤだ」という一部の早混人の反応と対にとらえてみると興味深い。
 要するに、神宮球場に校旗はためくシーンとセットで「都の西北」をイメージする向きには若林版は軟弱過ぎて許し難いのだが、混声合唱の一つの表現形式として校歌を取り上げ、デモンストレーションしていると見る向きからは、素材としてのコーラスを純粋に鑑賞され、評価されているのだと思う。
 「こんなもの『都の西北』じゃない」と他所から文句でも言われたら、若林版の編曲はあくまでも「演奏会用」のものです、八尋和美先生の指導のもとルネサンスやバロック期の宗教音楽を長年にわたり取り上げてきた早稲田大学混声合唱団とは、こんな感じの合唱団ですよ、と自己紹介するためのツールなんですから、誤解なきように願います、と答えるのがいいんじゃないかと思う。現役の子と「若林版」が話題になるときは、こんなアドバイスをしている。