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2010年11月11日木曜日

八尋先生が早混を変えてしまった…という虚構

八尋和美先生が早混の専任指揮者に就任されたのは1966年のことで、1970年の後期からご病気のために事実上、早混の指導を離れ、復帰されるのは1975年の後期からである。いわゆる「第一次八尋時代」「八尋大不在時代」と早混の研究者が勝手に名付けているこの10年間は、早混のレパートリーのみならず演奏会のスタイルや運営全般にも大きな変化が起こった時代だった。

これに直接の関連づけをして「八尋さんがオレたちの早大混声を全然別のものに変えてしまったんだ…」と半ば恨めしげにぼやく「石田・長谷川時代」(1958~65年)の卒団生の声を聞くことがある。1960年代の早混が遠い昔の姿になって、自分たちのやっていた音楽シーンを今の現役がちっとも顧みてくれないのは「ぜ~んぶ八尋さんのせい!」と言いたいのだろうが、早混を研究してきた筆者の見るところ、1970年をはさんだ前後10年の早混の変貌は、先生お一人の「仕業」ないし「業績」とひとまとめに責任転嫁できるものではない。(これとは逆に、「『昔の早混』は全くダメな存在で、八尋先生がお越しになってから早混は大きく発展した」という言説もまた、若い連中が欺されやすい真っ赤なウソである。団員数が激増して運営面が安定し、各パートにボイストレーナーの先生を迎え、共立講堂や東京文化会館といったプロと同じ会場が使えるなど、演奏団体としてのシステムが整ったのは「石田・長谷川時代」の最大の功績だった。徳川幕府を褒めそやしたいがために、信長や秀吉の役割を過小評価するのは素人が陥りやすい誤解である。むしろ、八尋時代が始まった頃の早混は、学園紛争の影響をもろに受けて、団員数は激減するし、路線対立は起こるし、演奏会の会場が使えなくなるは、同志社との交歓演奏会が2度にわたり中止に追い込まれるは、演奏旅行が出来なくなるは…と運営面では災難続きの10年だった)

確かに、交歓演奏会や定期演奏会といったレギュラーの演目に先生の意向が働いたのは事実だが、学生指揮者の選曲、日常の「愛唱曲」の取捨選択といった箸の上げ下ろしにまで八尋先生が口出しして早混を改造したわけではなかった。これは、当時の関係者に聞いてみれば一目瞭然である。(校歌の編曲を変えさせたり、豪華なプログラムに苦言を呈したり…といった話は、1990年代を下ったずっとあとのこと)

「今に通ずる『早混らしさ』は何時ごろから出てきたのか?」と言っては紛らわしいかもしれないが、初めて取り上げた作曲家や作品が、あとの時代でも歌われる「再演度」が大幅に上昇するのは1970~75年の「八尋大不在時代」からである。高田三郎やJ.S.バッハのように既に1960年代に登場しているものもごく僅かながらあるが、間宮芳生「合唱のためのコンポジションI」のように、「(つい最近の)今の早混にも選ばれる曲」は1970年代に入って圧倒的に増えてくる。あとの時代から見て、八尋先生がおいでになった当初よりも先生が不在の時期の方が「早混色」は急速に浸透したことになる。愛唱曲の大幅な入れ替えが断行されたのも同じ頃で、要するに、いちいち先生の指図があったわけではなく、学生たちが自発的に早混の姿を変革させたのである。

これには合唱や音楽に対する学生の意識の変化があってこその話なのだが、その背景には1960年代から1970年代にかけて大学やアマチュアの合唱団、特に日本の混声合唱を取り巻く環境が著しく様変わりした点を指摘しなければなるまい。

1949年に「早稲田大学混声合唱団」を旗揚げして最初に取り上げた曲はウェーバー「祈り」で、その後1950年代のレパートリーは外国の混声合唱曲や民謡などを編曲し、日本語の訳を付けたものが大部分で(シューマン「流浪の民」など今ではお手軽な愛唱曲になったが、当時の技術的水準では年に一度の発表会で披露する「大曲」だった)、邦人作品は皆無。1960年代の初頭になると、民謡・童謡や歌曲、あるいは既存の男声合唱曲を混声に編曲したものがようやく出てくるが(清水脩「月光とピエロ」など)、日本人の作曲家が最初から混声合唱を念頭に置いて創作した楽曲が出版されたり、方々で演奏される動きは、1960年代から70年代にかけてようやく顕著になってくる。それも、最初は互いに関連性が弱い単独の小品を集めた「合唱曲集」のようなものが中心だった(大中恩「わたしの動物園」など)。ところが、アマチュアの混声合唱団の活動が盛んになり、独自に演奏会を催すようになると、単なる小品づくしのステージではなく、テーマ性のはっきりした連作詩に複数の曲をあてて20~30分ほどの構成感のしっかりした中曲に仕上がった、いわゆる「合唱組曲」と呼ばれる作品群が登場するようになって行く。

こうした小品の寄せ集めから本格的なコンサート・ピースへの移行は、1960年代の早混でも明らかで、60年代前半の石田・長谷川時代の定演や地方公演では「愛唱曲集」と銘打ったMCつきのステージが必ず盛り込まれていたのが、第一次八尋時代になると一般客向けの地方公演だけにとどまり、定演では高田三郎「水のいのち」、三善晃「嫁ぐ娘に」、團伊玖磨「岬の墓」といった従来に比べて大規模かつ技術的にも比較的高度な日本人の作品が歌われるようになる。こうして、混声合唱を念頭に創作され、もともと日本語で作詩され、日本語を念頭に作曲されたオリジナルの作品が普及するにつれて、編曲というにわか仕立ての「擬似混声合唱曲」はレパートリーから急速に姿を消していった。

この流れは、外国曲でも同様だった。ロシア民謡、フォスター、黒人霊歌といった平易で親しみやすい旋律や映画音楽やミュージカル作品からアレンジした合唱曲は定演などのレギュラーな音楽シーンから駆逐されて、地方公演・お座敷・新入生演奏会向けの存在へと「格下げ」され、ポピュラー音楽ほか種々雑多な演目が賑わっていた石田・長谷川時代とはうって変わり、早混の売り物はルネサンスやバロックの宗教作品(オラトリオではなくミサやレクイエムといった典礼文)を原語で歌うスタイルが1970年代以降はメインとなっていった。このあたりの変化に八尋先生が陰で主要な役割を果たしていたのではないかといぶかる向きもあるのだが、先生が「第一次八尋時代」に早混で取り上げられた曲目を見ると、プーランク、ドヴォルザーク、ドビュッシー、コダーイ…と後の時代からは「早混らしからぬ」作品も数多く並んでいるのには驚かされる。先生の音楽遍歴も宗教曲一辺倒で塗りつぶされていたわけではない点に注意すべきだろう。

この時代、アマチュアの合唱団や学生たちが歌う曲を探したり、新しい曲に触れる「選択の機会」は、その幅が大きく広がりつつあった。1956年の第1回定期演奏会でショスタコーヴィチ「森の歌」を取り上げたときは、誰もレコード・プレーヤーを持ってないので(もちろん極めて高価だったからである)、皆で金を出し合ってLPレコードを買い、喫茶店に持ち込んでかけてもらったという話が伝わっているが、1969年にFMラジオの本放送が始まって、比較的廉価に良質の音楽ソースが供給されるようになると、クラシックの分野でも従来知られていた「名曲」以外にもルネサンスやバロック期の作品が数多く紹介されて、未知の合唱分野への関心が高まり、レパートリーの選択肢も爆発的に増えたのである。

既に取り上げられていたバッハに加えて、パレストリーナやシュッツなど、バロック期の諸作品を得意なレパートリーとするのは1970年代を通じての傾向だが、クラシック・ファンの間でも従来のウィーン古典派と初・中期ロマン派を中心とした作曲家にとどまらず、バッハ・ヘンデル以前の音楽への関心の高まりや、ブルックナーやマーラー、R.シュトラウス、シェーンベルク以降の近現代の作品への傾倒なども見られ、こうした流れに混声合唱も大きな影響を受けて演奏会に反映されている。

1970年前後の早混の変貌は、八尋先生お一人のご意向だけで説明できるものではない。当時の学生たちである諸先輩方は時代の動きに敏感で常に新しい音楽に関心を向け、トップ・ランナーたろうとして早混を育ててきた、と見るべきだろう。

2010年6月5日土曜日

往時は名物だった「早稲田の第九」

 2007年10月の創立125周年記念行事の一環として、記念会堂を会場におよそ12年ぶりに交響楽団と学内の合唱サークルが合同でベートーベンの交響曲第9番が演奏されたのも記憶に新しいところだが、1957年から1995年までの約40年間、早稲田では1年おきにクラシック系の音楽サークルが第九交響曲を披露するのが恒例の行事となっていた。
 1957年に今の記念会堂が竣工した記念として、当時の学生部長だった滝口宏教授の肝いりで始められたのだが、当時は女声の確保に苦労し、学内の合唱サークルはもとより女子学生に個人的にあたったほか、玉川大学の応援を得たのは各種資料に詳しく出ている話である。当日の進行表が残っていて、エキストラの玉川がスタンバイする時刻の他、「N響入り」という記述があって、おそらく特殊楽器など学生では手の足りなかったパートの補強として来てもらっていたのではないかと推察される。
 この手の話は大学の資料やサークルの会誌では触れられないところで、ついでにもう一つ紹介しておくと、このときの演奏が日本史上初めての学生による第九だという触れ込みになっているのだが、筆者が調べたところでは、1949(昭和24)年に仙台で東北大学の音楽部が金子登の指揮で演奏しており、これは第九の「東北初演」だったということになっている。おそらく合唱(特に女声)に関しては職員のコーラスや外部の団体の応援を得て挙行したのであろうから、学生の第九の第一号は早稲田と名乗って差し支えはないと思われるが、若干微妙なところでもある。
 話を戻して、1957年の早稲田で最初の第九は、日本楽器(ヤマハ)が試験的にステレオ録音をとっていて、あとで銀座の本店で披露したという話を複数の関係者から聞いている(ラジオのニュースでも音声が紹介されたそうである)。残念ながらテープは残っていないらしい。筆者の知るところでは、フロイデハルモニー(早稲田の第九)で最古の録音は1962年に東京文化会館で当時、「N響事件」の渦中にあった小澤征爾が指揮したときのもので、マスターは未だに行方不明だが、関係者に配布された孫コピーのテープを保管していた早混の先輩がいて、デジタルに複写したものを大学史資料センターに寄贈した。学芸員の方からは「早稲田から記念で出せませんかね」と言われたことがあるのだが、ソリストが複数のレコード会社の専属になっているほか、小澤征爾は、自分の若い(つまり、本人から見て「未熟な」)時期の演奏の復刻にはNGを出しているそうなので、残念ながら公にはできないだろう。薫陶を受けたミュンシュやバーンスタインを彷彿させる、軽やかな曲の進め方がいかにも小澤らしい演奏だった。

2010年6月2日水曜日

新入生演奏会の始まり

 現役の方では新入生の顔ぶれも揃ってきて、新入生練習も熱気を帯びている時期だろう。早混の諸制度の中で、おそらく最も成功したのが新入生演奏会であることは早混史の研究者の間でも意見が一致しているところだが(笑)、1963年に新入生演奏会(当時は「新入部員の演奏を聴く会」)が初めて開かれたときは、それほど用意周到な狙いでやったわけではなかった…という話を現役の役員にすると意外な顔をするから面白い。
 1956年に第1回の定期演奏会が大隈講堂で開かれたのは6月23日のことで、入学したばかりの部員も猛特訓してステージに乗せてしまったのは有名な話だが、この年に限らず人材不足の時代は新人だろうが何だろうがさっさと上級生の練習に組み入れて、新入生歓迎会で新入生が新入生を歓迎するような状況は1950年代の末まで続いた。
 しかし、1960年代になると折からの「合唱ブーム」で新部員の数が年ごとに倍増すると面倒な事態になってきた。始まって間もない同志社とのジョイントや六連は上級生の行事だったが(当時の六連は各団体間での申し合わせが厳しく、個別ステージの制限時間はもちろんのこと、新人は参加させないというルールも徹底していた。練習もろくろくしないで本番に出てしまうようなふざけた団体が登場するのは1970年代以降である)、入ったばかりの部員を練習だけで遊ばせておくわけにも行かないので、新人の「お披露目」「初舞台」は合唱連盟が主催する春の合唱祭だった(秋は合唱コンクール)。
 ところが、当時の合唱祭の会場は今みたいに本格的なホールが使われるわけじゃなくて、専門学校の講堂など、かなりステージの狭いところでやっていた。だから、上級生と新入生が一緒に参加すると客席や舞台袖にあふれ出すほどの人数になりつつあって、合唱祭も新入生は参加させられない、どうしようと当時の役員会が悩んだ末に、そんなら前期の練習とお披露目は新人だけ別メニューにしてみよう、と考えたのが今の新入生演奏会の始まりである。
 記録によると、1963年に初めてこれをやったときは一度きりの試みということで役員会でも翌年はやらないつもりだったらしいが、新人の育成や学年での人間関係の構築、上級生の活動への円滑な移行、等々の利点が早くも認識されるようになり、現在に至るまで50年近くにわたって団の公式な活動として優れた役割を果たすこととなったのは周知の通りである。

2010年5月31日月曜日

昔の早稲田の恋愛

 5月30日に練馬文化センターで早稲田大学マンドリン楽部の定期演奏会があって、秋の校友音楽祭ではうちが歌う三善晃「クレーの絵本」で伴奏のギター奏者を紹介して頂くことになり、挨拶かたがた先様のOB/OG会の打ち上げに顔を出した。
 同席したご年配のOGの人は早混にも友人がいて、草創期のフロイデハルモニー(1957年から1995年まで、ほぼ2年に一度、学内の交響楽団と合唱団が合同で第九交響曲を演奏するならわしがあった)のコーラスに出たことがあるとのこと。のちには、各合唱団がメンバーを出して、女声で足らないところはグリークラブあたりと付き合いのある女子大から賛助出演してもらっていたが、当初は合唱サークルの構成員でなくても早稲女の個人参加を募っていた時期があったことは知っていたものの、実際に本人から話を聞けたのは初めてだった。
 早稲田の女子学生が全体の1割ほどになるのが1960年代のことで、この方の在籍されていたころの早稲田はどの学部でも女子は少なく、自然と女の子同士は仲良くなるものだったようだが、なんでも友だちの一人が1学年上の男子学生で混声の人を(当時は、早混ではなく学内では「混声」と呼ばれていた)好きになったけど、思いを打ち明けられぬまま、卒業式の季節になってしまった。学部の何かの行事で「お別れ会」みたいなのが開かれて先輩たちに代わる代わる挨拶をすることになり、これであの人ともお別れなんだ…向き合ったら何も言えなくて目に涙を浮かべて手を握りしめたまま見つめるばかり…。そうしたら、卒業式の前の日に電話がかかってきて…その後、二人は結婚したんですのよ。
 昔は卒論や就職活動の時期に中途で退部する人も多かったので名簿に載っているかどうか分からないし、まして他の合唱サークルかもしれないし、誰かと尋ねるのもヤボな気がしたので聞くだけにしておいた。今の現役が聞いたら「さっさと告ればいいのに」と腹を抱えて笑い出しそうだが、半世紀も前の早稲田の男女は慎ましくも奥ゆかしい恋愛をしていたものである。

2010年5月29日土曜日

敗戦直後の合唱サークル成立の形式―女声か混声か

 第二次世界大戦以前の日本の大学は、「女子大学」と名乗っていない限りは大半が「男子大学」で共学を実施していたのは一部の私立校だけだった。従って、大学で混声合唱団の活動をやっていたのは、教育活動の一環としてやっていた玉川学園やチャペルの合唱隊とその延長線上で宗教音楽を演奏する機会のあった成城学園、関西に目を転じると、付属の女子専門学校と合同で混声を臨時で組織していた同志社(現在のCCDとは直接の関係はない)や近隣の女学校からメンバーを集めて混声合唱団として活動していた京都大学など、わずかな例にとどまっていた。
 敗戦とともに占領軍の政策の重要な柱の一つとして教育改革が実施され、4年制の大学でも原則として男女共学が導入されるようになるのは1949年からである。男ばかりでやっていた各大学の音楽サークルでも新たに入ってきた女子にどう対応するか、様々なパターンが見られた。
 一つは、男声合唱団を改組して混声合唱団として再出発する例があった。混声六連で早混とも付き合いの長い青山学院大学グリーン・ハーモニー合唱団がそうで、もともと同団は大正時代に創設された伝統ある男声合唱団だった。ミッション系の大学の場合、女子学生の浸透度は他よりも早かったようだし、もともと「男子大学」とは別に女子教育を行う系列の学校をかかえていたところは、戦後も短期大学や女子大学として女子の受け皿は存続しているから、4年制の学部生に系列の女子校から人材を追加して混声合唱団をやるのは比較的容易だったようである。
 一方、もともと男声合唱団として活動していたサークルの中には、戦後になって女子学生がやってきて自分たちも入れて欲しいと要求されても、人数比に難があるとか、男社会の伝統を崩すのに抵抗があったとか、様々な理由から混声への改組には踏み切れないところも多かったらしい。従来の男声合唱団に入れるわけにも行かず、サークル内に「女子部」の形で受け入れて、対外的には女声合唱団として活動させたのが慶應義塾大学ワグネルソサイエティや立教大学グリークラブで、現在でも立派な活動を続けている。
 もっとも、同じ看板(ブランド)で女子大学や短期大学をかかえていない学校では、女子の供給をめぐって少ないパイを奪い合うような状態にならざるを得ない。慶應や立教のように女声合唱団がしっかりした組織力を永年育んできた学校では、逆に混声合唱団で有力な団体が台頭することが遅れる結果となったようである。逆に、女声が学内の他の混声に押されて衰退し、活動を続けられなくなったのが東北大学や早稲田大学であった。東北大学男声合唱団の別働隊・通称「ひよこ」は1970年代に活動を停止したが、早稲田大学グリークラブの庇護下で活動していた早稲田大学女声合唱団は1963年に休部に追い込まれている。
 早大グリーの場合、1949年のコール・フリューゲル独立事件のあと、団の活動回復策の一つとして事実上の女子部である女声合唱団の育成・指導が行われた。最盛期には30人ほどの陣容をかかえ、グリー部内の行事では混声合唱の試演も行われたことがグリークラブの百年史「輝く太陽」の中に書かれている(ちなみに、同書に掲載された当時のグリー男子の手記には、「当時の混声の女子は大半が外部からの参加だった」とあるが、これは早混と早大合唱団の活動を取り違えた誤解である。当時でも早混の女子は大部分が早稲田大学の学生だった。本文の記述だったら後日の訂正を正式に申し入れるべきところだが、随筆として書かれた箇所なので目くじらを立てるほどのことでもないと思う)。
 早混との絡みで触れておくと、1950年代は新入生の女子の取り合いで早混の新歓ポスターを引っぱがされて、仕返しに殴り合いの喧嘩になった…なんて物騒な武勇伝もあるのだが、50年も前の話で当事者の多くが鬼籍に入ったこともあり、グリークラブのOBと同席する時にも恨みっこなしの笑い話で済んでいる。
 早稲田で女声合唱団が続かなかった理由は、早混の他にも1950年代には早稲田大学合唱団や早稲田大学コール・ポリフォニーなどインカレ系ながら混声をやっていたサークルが既に活動しており、1960年には早稲田大学室内合唱団が設立されるなど、こと混声に関しては選択肢が多くて、女声はその余波をもろに受けたことが女声合唱団が10年ほどの短命に終わった主な原因だろうが、グリークラブの百年史を編集されたご年配のOBの方から伺った話によると「早稲田内部で自前の人材を育成しようとするよりも、よその女子大の合唱団と仲良くする方に熱心になった」のも女声合唱団が早稲田に根付かなかった一因とのこと。
 そんな時代から半世紀たって、伝統を誇る4年制大学の多くは女子学生であふれ、昔とは逆に男声合唱団が立ちゆかなくなって混声に改組したり、更に(東京大学で最近結成されたそうだが)新たに女声合唱団が誕生するといった動きもあるそうである。早稲田でも「都の西北」を女声3部合唱で聴く日も遠くないかもしれない。

2010年5月28日金曜日

早混の誕生

 早混五十年史が刊行されてもしばらくの間、現役の新入生向け案内などには「昭和23年に教育学部音楽研究会として発足」云々の記述が残っていて、これはとんでもない間違いだからと訂正させて、最近はようやくなくなったようである。
 正解を先に書いておくと「早混の始まりについて述べよ」という設問に答案を書くなら、次のような内容にすれば合格点である。

 1948(昭和23)年の春に、旧学制下の早稲田大学高等師範部社会教育科で「音楽」(講師・梁田貞)の授業を受けていた学生たちが「高等師範部混声合唱団」として合唱活動を始めた。
 翌1949(昭和24)年4月、戦後の学制改革に伴って新たに組織された教育学部には「音楽」の学科や授業が設けられなかったので、学生たちは全学規模のサークルとして活動を継続させることとし、「早稲田大学混声合唱団」を名乗った。


 このデータに基づいて今の現役の子たちは「since 1949」と早混は1949年に設立した…と書いているのだが、文字通り早混をつくった当時の先輩方の間では「うちの創立は昭和23年だ」という認識だったのである。要するに「高等師範部混声合唱団」と「早稲田大学混声合唱団」の間に同一性・連続性があったかどうか、という点が問題となるのだが、当時の経緯を知る人たちに直接インタビューしたところによると、高等師範部混声合唱団のメンバーはほぼ全員が引き続いて早稲田大学混声合唱団の活動に関わったそうである。従って、参加資格は高等師範部の人間だけで始めたとはいえ、1948年から早混は活動を開始したという解釈も成り立つわけで、定義としては微妙なところなのだ。

 「教育学部音楽研究会」という名称が早混の実際の活動とは別に一人歩きして、資料の中に紛らわしい形で残ってしまったのにも複雑な事情がある。詳しい経緯は省くが、高等師範部の部内サークルとして発足した実績があったので、新設の教育学部(高等師範部がそのまま改組したわけではない)からも高等師範部の備品だったピアノを使わせてもらったり、のちに教育学部の建物の中に自前の部室を与えられるという便宜が図られた。つまり、教育学部直属のサークルとして学部の庇護下に置かれたのだが、建前として教育学部の学生たちによる活動であるという体裁を表面上はとらざるを得なかった。教育学部当局との間に交わされた書類には「早稲田大学混声合唱団」ではなく「教育学部音楽研究会」の名が記されていた(責任者その他の代表の氏名を記載する場合、教育学部の学生の名前に代えて申請するようなこともしていたようである)。当時のOGによると学校に書類を出して許可やら何やらもらうために「研究会」としていただけで、「そんな名前を名乗っていた覚えがない」とのことであった。
 実際には他の学部の人間も多数出入りしていて、1950年代を通じて少しずつ団員も増えて行き、実力も備えていったのだが、草創期の役員の悩みとして、全学的なサークルでありながら教育学部のサークルとして厚遇されたことで、部室を持たない他の学生サークルから嫉妬され、色々と嫌がらせを受けたり、「女子を根こそぎ取り込んでしまう存在」(実際にはそんなことはないのだが)として目の敵にされていた時期もあったという。
 これが、現在の1号館の最上階に部室が置かれていた「屋根裏部屋」時代の早混で、1960年代の初頭まで続く。その後、教育学部の庇護を離れて旧8号館の地下に居を構える頃には団員数も激増して「第一次黄金時代」を迎えることになるのである。