2014年5月3日土曜日

校歌の編曲あれこれ

 「早混稲門会OB/OG通信」2014年春号に投稿するつもりで執筆したのだがボツになったので、個人のブログで発表することにした。不掲載の理由は結局不明のまま。この程度で騒ぎが起こるとも思えないが、校歌の新しい編曲がお嫌いな向きには現役や若い子たちに知られたくない内容も含まれていたようだ(苦笑)。
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戸田版60周年・長谷川版50周年・若林版20周年
校歌の編曲あれこれ

 今年は、「早稲田大学校歌」を混声合唱に編曲した「戸田版」が誕生して60年、「長谷川版」が誕生して50年、「若林版」が誕生して20年という節目を迎える。
 校歌の編曲は、作曲家の石桁眞禮生(いしけたまれお・1916-1996)に和声を学んでいた5期の戸田明男さんが1954年に手がけたものが最初である。1番をハ長調のユニゾンで歌って、2番でヘ長調の混声4部にディビジョンし、3番を「ヘンデルの『ハレルヤ』のような」形でまとめるのが、当初の構想だったというが、残念なことに3番のフーガは完成しなかった。その後、2番も斉唱するか2番3番と続けてディヴィジョンするかで試行錯誤があってから、1番のユニゾンから3番に飛び華々しく和音を響かせる歌い方が定着した。この「戸田版」は、後に早大合唱団など学内の他の混声サークルにも伝わり、歌われていたという。戸田版が目指したモノフォニックな響きとポリフォニックな響きは、そのビジョンがともに長谷川版と若林版の中で結実したのであって、戸田版の歴史的な価値は決して色褪せていない。
 現在、卒団生の行事などで広く歌われている譜面は、1964年に当時の専任指揮者だった長谷川博先生が編曲した。全体のスタイルはそのままで和声だけ変えた理由については伝わっていないが、石桁眞禮生の指導を受けて創造性の強いエネルギッシュな和声進行も盛り込まれた戸田版に比べ、長谷川版はすべて「音楽の教科書通り」のオーソドックスな和音に戻されているあたりに鍵はありそうである。同じ頃につくられた川崎版の「紺碧の空」「早稲田の栄光」は秘かに何度も和声が手直しされた一方、長谷川版の校歌は、シンプルさが受け入れられたのか、特に手を加えられることもなくそのまま受け継がれていった。
 現在、定期演奏会などで披露されているバージョンは、1994年に八尋和美先生の提案により、作曲家の若林千春氏によって新たに編曲されたものである。その狙いや事情については定かではないが、どうやら八尋先生にとって校歌の編曲とは定期演奏会の冒頭で現役が歌うためのもので、これ以外の機会や場面は念頭になかったらしい。結局のところ、卒団生関係や学校行事での利用もあって、長谷川版を廃止して若林版に乗り換えることにはならず、シチュエーションに応じて新旧のバージョンを使い分けるスタイルが現在まで続いている。
 20年間にわたって現役生が若林版を大切に歌ってきたという実績は重く受け止めなければならないのだが、OB/OGはもとより早稲田大学関係者の間でも、若林版に対して賛否両論があることは事実である。長谷川版に慣れ親しんだ世代の中からも「自分が現役のときにこのような形で校歌を歌いたかった」「『都の西北変奏曲』ということでいいのではないか」といった肯定的な声があがる一方、調性を大きくいじって全体にポリフォニックな進行になり、しかも静謐な雰囲気を漂わせていることへの不満もこれまで少なからず耳にしてきた。早混の定演で若林版を聴いたグリークラブのOBが「混声には校歌を歌ってほしくない」と激怒した話が伝わるのとは裏腹に、交響楽団と応援部吹奏楽団の関係者からは「(若林版は)混声合唱の特色が十二分に活かされた優れた編曲である」との高い評価を頂いている。
 これらの相反する言い分を理解するに、神宮球場で校旗が翻っているような「早稲田らしい」イメージを校歌の演奏に求め、期待する人は、繊細極まりない早混の若林版に違和感を禁じ得ない反面、八尋先生のもとで50年近くにわたって先輩後輩たちが築き上げてきた音楽スタイルの「入り口」「延長線」として「都の西北」を聴いてみたい人は早混が自己紹介するためのツールである若林版を肯定するのだろう。
 「入学して初めて早混の校歌を聴いたら、『あれ?早稲田の校歌ってこんな曲だったかしら…』と一瞬思いました」という若手OGの声もあるくらいで、若林版の難点の一つはとにかくアレンジが効きすぎていて、オリジナルの旋律から大きく離れてしまっている部分があること(特に2番の「ひとつに渦巻く大島国の」など)。入学式の歌唱指導やスポーツの試合前のセレモニーなど、八尋先生や早混のことを知らない一般客が相手では、さすがに若林版は使えないようである。
 もっとも、長谷川版とて万能ではない。グリーの男声合唱版もそうだが、3番の美しいハーモニーを際立たせるためとはいえ、「都の西北、早稲田の森に…」という世に最も知られた折角のフレーズを「前振り」のような地味な存在に落としているのはもったいない。ブラスバンドやオーケストラの奏でる校歌にはファンファーレとグリッサンドが特徴的な8小節の前奏がつくが、これはそれなりに意味があるのである。また、しばらく前にラグビーの大学対抗戦で試合前に長谷川版の校歌を現役が披露したところ、「賛美歌みたいな都の西北が流れていた」とネットで評判になったのは良かったが、「観客が一緒に歌えないので、転調するのはやめてくれ」と主催者側からクレームが付いて次からは斉唱で歌う羽目になった。自分たちの歌声をお客さんは黙って聞いてくれるものだとばかり思っていると足をすくわれるわけで、交響楽団やマンドリン楽部のコンサートでは、聴衆も一緒に校歌を口ずさんでいる。早混だってたまには会場のお客さんと一緒に歌う機会があると面白いかもしれない。
 学位授与式や記念式典などで校歌を「奏楽」するときは楽器だけで合唱は使わない、というのが昔からの慣例とのことだが、大学創立125周年のときには男声合唱と管弦楽の譜面が新たに作られた。重要な学校行事から早混は外されっぱなし…というのも残念な話で、いささか音楽的な興趣に乏しいのは我慢するとして、オリジナルのニ長調で1番から3番まで通して管弦楽やブラスバンドと一緒に校歌を歌う現役の姿も一度は見てみたいものである。

2012年5月6日日曜日

東京六大学混声合唱連盟第54回定期演奏会を聴いて

昨日の午後は、上野の東京文化会館大ホールで東京六大学混声合唱連盟第54回定期演奏会。今回は法政大学アカデミー合唱団は冒頭のエール交歓のみの出演。この2月に演奏旅行の下見に現地入りしていた団員が不慮の事故で亡くなったため、活動を自粛中とのこと。

青山学院大学グリーンハーモニー合唱団はひところステージに乗るメンバーが十数名まで落ち込んだが、このところ持ち直してきた模様。現代イギリスの作曲家・Bob Chilcottのアカペラ作品から4曲。ブリテン以来の中庸な聴き心地の良い作風だが、音程がいまひとつ不安定なのが惜しい。

うちの現役(早稲田大学混声合唱団)は信長貴富編曲「アニソン・オールディーズ」より3曲。大野雄二「ルパン三世のテーマ」は、スキャットの裏拍の打ち方で切れ味がぱっとしないのはいかにもうちの不得手が出てしまっている。羽田健太郎「宝島」で急に水を得た魚みたいに音量が元気になるのにはニヤリとさせられた。「ルパン三世」もそうだが、本物の放送を同時代に観て馴染んでいると、「鉄腕アトム」で前奏や間奏が全く別のものに付け替えられているのはどうも頂けない。とはいえ、平易なメロディーを選んでいながら、かなり手の込んだ編曲を披露するのは技術的なアピールとしてよく考えていて評価したい。

東京大学柏葉会合唱団は鈴木輝明「もうひとつのかお」。早混もしばらく前に定期演奏会で取り上げた曲だが、同時代の作曲家で耳の肥えた合唱ファンをうならせるのにかけては、相変わらず柏葉はことのほかうまいとほめたくなる。人数も六団体のうちではダントツで、いい活動をしていると人材に恵まれる幸福な例だろう。

慶應義塾大学混声合唱団楽友会は武満徹「うた」より3曲を指揮された栗山文昭先生ご自身の編曲による演奏。いずれも寺嶋陸也によるピアノ伴奏付き。「死んだ男の残したものは」は林光と作曲者自身によるアレンジが知られているが、栗山版はラヴェル「夜のガスパール~絞首台」を思わせるピアノの上に女声、男声とモノフォニックに歌い込むスタイルに斬新さを感じた。「昨日のしみ」「めぐり逢い」も好演。ただ、気になったのは技術的に磨き上げた副作用なのか、人数の落ち込みがハンパではなく、青山学院と同じ規模になっているのは心配。

明治大学混声合唱団は、長年音楽監督で明混トーンを築き上げ一昨年亡くなられた高田作造先生の編曲によるカンツォーネ4曲。(言っては悪いが)イタリア・オペラの群衆の合唱ばかり20年近くも聴かされてうんざりしていたので、すごく新鮮で面白かった。ピアノにマンドリン4本の伴奏は、雰囲気があって良いのだけど、fffで合唱とピアノにかき消されてしまうのは頂けない。マンドリンとギター数名のアンサンブルの方が音が溶け込むのではないか。

合同演奏は、岩本達明の指揮によりムソルグスキー「展覧会の絵」の伊藤康英による編曲。「混声合唱とピアノ連弾のための交響的カンタータ」とタイトルにあるが、もともとは吹奏楽・サクソフォーン4重奏・ピアノ2台8手という器楽中心の大規模な編成に合唱が随所に加わる形の作品で、これを相変わらずの不見識により、ピアノ1台の4手連弾によるヴォーカル・スコアで演奏してしまった。ヴォーカル・スコアの伴奏は練習のときに便宜的に使うものであって、これ自体が聴衆に披露するに値するかどうかは甚だ疑問だ。おまけに、合唱が出てくるところだけ取り出して、あとは割愛したり、曲を縮めたりするつまみ食いでは、一貫性に欠ける。要するに「第九交響曲」で合唱の出てくるところだけ編集してピアノの伴奏で歌っているようなもので、興趣のないことおびただしい。ヴォカリーズではなくて、シラー、ゲーテその他の詩をもってきていて、第2プロムナードの大らかなメロディーに杜甫の詩をあてて中国語で歌わせたのは秀逸のアイデア。惜しむらくは、終曲「キエフの大門」をシラーの「歓喜に寄す」(第九交響曲に用いられたあれ)をドイツ語で歌ったのだが、ロシア音楽の味わいを活かすなら子音の濁り方に独特の力強さがあるロシア語でやったらアレンジの価値もさらに高まっただろう。技術的にかなりしっかりまとめていたのは評価したいが、いかんせん編成が悪い。器楽曲の1パートとして合唱が参加しているに過ぎない作品を、器楽の部分を貧弱にしたからといって合唱が引き立つわけではない。主旋律が聞こえずに「伴奏」のコーラスばかり目立つ箇所が方々に見られて、何を聴かせるつもりなのか。毎度縁故客相手に自分たちが歌うことが第一で標準的な音楽ファンの目線を軽視するから、こんな最悪な企画を考えつくのだろう。各団体ともけっこう技術的に良い演奏しているから、なおさら情けなくなった。「船頭多くして…」の体質が治らないなら、いっそのこと合同演奏をやめた方がいいのではないか。

2012年4月26日木曜日

校歌・学生歌の始まりは「替え歌」だった

2012年4月21日の朝日新聞朝刊の土曜版「be」に掲載の「うたの旅人」は、瀬戸口藤吉「軍艦マーチ」を取り上げ​ている。記事の前半は、1908年(明治41年・「都の西北」の​翌年)に東北の名門・盛岡第一高等学校(当時は盛岡中学)が校歌​のメロディーに「軍艦マーチ」を用いた経緯について詳しくまとめて​いるのだが、「何でまた校歌を軍歌の替え歌などに?」という背景​に関して《…当時はすべてにおおらか、そのまま校歌になった。》​との解説。これは誤報とまでは言わないが、かなり調べが足らないし、説明として不十分である。

 スペースの都合ではしょってしまったのかもしれないが、明治時代​の「校歌(カレツヂ・ソング)」は、新たに独自の作曲をするもの​ではなく、身近に歌われ聞き慣れた俗謡・童謡・軍歌・唱歌、さら​には先行する学校の校歌ないし学生歌の節回しを借用して、それぞ​れの校風を読み込んだ歌詞を乗せる「替え歌」がごく普通だったと​いう学問上の常識を、どうやら朝日の記者は調べ漏らしたのではな​かろうか。

 学童への音楽教育が未発達で、カラオケどころかラヂオ放送や蓄音​機さえ普及・存在しなかった明治以前の一般人(欧米も同じ)は、​芸人や音楽家といった特殊な技能を身に付けた場合を除いて、ドレ​ミファ…を正確に歌えなかったと言われている。わざわざ新しい曲​を用意しても、練習が面倒だし、普及させるのが難しいから、出来​合いの曲を流用するのが一番確実だったのだ(その点、米国の学生​歌を参考にしたとはいえ、オリジナルの曲を一から歌わせ、流行ら​せた早稲田の例は例外中の例外と言える)。

 筆者の住んでいる隣市の某小学校は、明治中期から続く古い学校だ​が、先年、書類の奥から昔の校歌の歌詞を記した紙が出てきて、楽​譜はない。地元の古老を訪ねて回ったら「祖父母がよく歌っていた​」という人がいて、確認したら旋律は当時良く流れていた軍歌「橘​中佐」(作詞:鍵谷徳三郎・作曲:安田俊高)のメロディーだったという。

 これは特別ではなく、和歌山県下の小学校では、歌詞だけ学校ごと​に変えて、旋律は同じものを使い回ししていた例が報告されている​し、盛岡中学と同じ年に京都の同志社では、「自分たちもカレツヂ​ソングがほしい」という学生の求めに応じて、米人教師が母校のイ​エール大学の校歌の旋律に新たな歌詞を付けてくれた曲は現在でも​同大学では親しまれている(ちなみに、オリジナルはカール・ヴィ​ルヘルム作曲のドイツの軍歌「ラインの守り」である)。

 朝日の記事の中盤では、軍国主義の鼓舞・宣伝に使われたような曲​を校歌として歌うことが戦後、問題視されたことが取り上げられて​いるけど、オリジナルの曲ではないことにケチをつけるようになっ​たのは、大正の末から昭和にかけて、全国的に自前の歌をこしらえ​てもてはやす「校歌」「社歌」が一大ブームになって以降の話で、​それ以前の校歌や学生歌は、そもそも成り立ちが違うということは​知っておいた方がよいだろう。

 元の歌がどこの国のどういう曲だったかにこだわるよりも、自分た​ちにふさわしい歌詞を付けて自分たちで盛り立てて育てていった「​実績」自体を重要視する方が、総じて多いように思われる。
 2度の大戦で敵国として戦い、多数の卒業生が命を落としたドイツ​の軍歌だからといって(映画「カサブランカ」の中でナチスの将校​が酒場で歌っているシーンあり)、イエール大学は「Bright​ college years」を捨てることはなかった。

 面白いことに、産経新聞が以前報じていたが、北朝鮮のマスゲーム​でしばしば流れる何とかという「革命歌」と大韓民国のとある大学​で古くから愛唱されている学生歌は、両方ともメロディーは日本の​「鉄道唱歌」をそのまま使っているそうである。

 また、南北戦争の最中にリンカーンの北軍が士気を鼓舞するために​歌い始めた「Tramp, Tramp, Tramp」という軍歌は、歌詞の一部を変えて南軍でも歌われ、​戦後もミネソタ大の学生歌として歌い継がれ、アイルランドに伝わ​ると独立運動の革命歌となって現在では第二の国歌としてフットボ​ールの試合では必ず歌われ、日本では北海道大学の校歌や同志社大​ラグビー部のクラブ・ソング、複数のキリスト教教団の賛美歌とし​て、みな同じ旋律とのこと。

 革命歌にせよ、学生歌、(狭義の)校歌であっても、所属する社会​・団体の帰属意識やナショナリズムを自覚・強調させるための手段​として用いるのが主目的だから、旋律など、覚えやすく親しみやす​く歌い継がれるなら出自などどうでもよいのだろう。

2011年11月21日月曜日

「都の西北」は「校歌」ではない──college anthemとcollege song

「『都の西北』は校歌ではない」と言うと、驚く方も多いと思う。名称・定義としては紛らわしく、一般に混同されているのだが、厳密には、college anthem(狭義の「校歌」)とcollege song(いわゆる「学生歌」)は役割も目的も異なるものである。
全国津々浦々の小・中・高等学校・大学で自前の歌詞にオリジナルの曲を創作する「校歌」が一大ブームとなるのは大正の終わりから昭和のはじめ頃にかけての時期であった。これ以来の校歌にまとわるイメージは、式典の際に荘重に演奏され、歌われる「聖歌」に近いものだろう。すなわち、卒業式や入学式において、学校の講堂に生徒が集められ、壇上には日章旗が掲げられ、演壇の左右には校旗と松の盆栽などが置かれ、国歌の斉唱に続いて教職員並びに生徒全員がうやうやしく歌う、あの光景である。欧米の大学には、出席者が唱和するのではなく、学内のチャペルで執り行われる式典に際し聖歌隊の演奏に全員が耳を傾ける、というパターンもあるそうだ。
この場合のanthemは、僧侶の読経や神主の祝詞と同じく、組織・集団(ここでは学校)への帰属心や忠誠の念を意識させるための有効な手段として機能している。従って、anthemは神聖な存在であって、目的外の乱用は憚られる。
 例えば、慶應義塾大学の学生並びに関係者の間では、「塾歌」を宴会などで歌ってはならない、という不文律が存在するそうである。(信時潔作曲による現在の「塾歌」は、1940年につくられた3代目。他の校歌と比べて、かなり新しい。ちなみに有名な「若き血」は1927年につくられた応援歌・学生歌である。当然のことだが、校歌ではないから、どこでどう歌おうとお咎めなしである)
 この点、昔から「都の西北」を酒席や路頭で高歌放吟させている早稲田と対照的なのだが、別に早稲田が昔からanthem(聖歌)の扱いに寛容であったとかいい加減だったということではない。そもそも、タイトルは「早稲田大学校歌」ではあるが、その成り立ちや歩みを見るに、anthemとしての色彩は極めて希薄だった。明治40年(1907年)の校歌誕生に先立ち、早稲田学報で学生たちから作歌・作曲を募集した際、採用した曲は式典でも用いる場合があることを示したものの、結局、創立25周年の記念式典では演奏の機会は与えられず、余興の寸劇の中で歌われ、夜半の提灯行列で高歌放吟される形で世に出た。つまり、当初はsongとして企図され、実践されたものであって、式典などで積極的に「都の西北」が活用されるのは、もうしばらく後の大正期に伴奏用の譜面がつくられるようになってからの話である。
 明治時代の大学関係の刊行物には、「校歌」に「カレッヂ・ソング」とルビを振るものがあり、anthemとsongの区別は曖昧だった。我が国の「寮歌」の例を挙げるまでもなく、19世紀までの欧米の大学において主流を占めたのはcollege song、すなわち「学生歌」である。当時は、音楽教育やメディアが未発達であったため、新しく曲を作って学生全員に覚えさせ普及させるのは大変困難なことだった。だから、既に広く知られ歌われている既存の軍歌、民謡、童謡、流行歌、讃美歌、さらには先行する他校の学生歌から旋律を借用し、自分たちの学校の有り様や学生気質を盛り込んだ歌詞をつけて歌う「替え歌」が学生歌の姿そのものだった。いわゆる日本の学校で「校歌」と言われるグループのうち、他よりも早い明治期に生まれたものの多くが、オリジナルの作曲ではなく、欧米の楽曲に基づく旋律が少なくないのは、本来の伝統的な学生歌の創作方法によるものだったからである。
 ここまでの説明によりお分かりのように、本来、college songとは、学校の教職員や大学当局が生徒・学生たちに公布し励行させる類のものではなく、学生たちが自分たちの存在を誇示し、仲間としての連帯意識を高めるため、自発的に生み出し、育ててきた性格が強い。「都の西北」も、坪内逍遙や島村抱月の主導でつくられたものの、いざ出来上がったあとは、事実上のほったらかし状態だった。「教育勅語」のように各学校で写しを厳重に保管し、片言隻句も違えず暗記させたのとは対照的に、早稲田大学には校歌の楽譜や歌詞の原本が保管されないどころか、歌唱指導も行われなかった。学生たちが勝手に歌い継ぎ、聞き覚えで伝えられて普及したのを受けて、anthemとしての側面も帯びるようになったと言える。
 冒頭に「『都の西北』は校歌ではない」と申し上げたのは、もともと「学生歌」として生まれ育った「都の西北」は、曲自体の持つ生命力により、歴代多くの学生たちに親しまれ、100年歌い継がれ、世に知られる存在になったのだ。従って、世間一般でイメージされている数多くの「校歌(anthem)」とは、生まれも育ちも実は全く異なった曲なのだ、という意味として受け取って頂ければ幸いである。

「都の西北」は“序破急”である

創立125周年を迎えた4年前の稲門祭では、校歌研究会によるシンポジウムが開かれたほか、会津八一記念館では大学史資料センターによる校歌関係の資料展が催され、相馬御風の揮毫や東儀鉄笛の自筆譜と並んで、イエール大学の学生歌「Old Yale」の収録された曲集が初めて一般公開された。
校歌の旋律や歌詞のモチーフなど、「都の西北」を生み出す際に参考にしたらしい箇所が見られるのだが、この学生歌自体、オリジナルの作品ではなく、1837年に英米で大ヒットしたジェームズ・ローダー作曲「The brave old oak」をもとにした替え歌である。
センターから依頼されて、「Old Yale」と「都の西北」の楽譜を部分ごとに対比させ、鉄笛がどのような箇所を下敷きにして、どういったところは使わなかったか、鉄笛のオリジナリティがどのように反映されているのか、色付きのパネルで解説させてもらった。
歌詞についての詳細な分析は別の機会とすることとして、鉄笛はオリジナルの曲をそのまま流用したわけではない。冒頭の「都の西北…」の音列と末尾の「早稲田、早稲田…」の上がり下がりを踏襲したのが目立つけれども、「我らが日頃の…」から「…行く手を見よや」までは、おそらく鉄笛が新たに書き下ろしたものであることは間違いないだろう。
今回取り上げたいテーマの出発点だが、原曲ではほぼ同じ長さの3つの曲想がABCと単純に続いているのに対し、早稲田大学校歌では、イントロの歌い出しAに比べて、真ん中のBの部分が2倍の長さに膨らんでいる一方、フィナーレのC(早稲田、早稲田…)にあたる部分を鉄笛はオリジナルのほぼ半分以下にまとめている。この曲全体の不均衡な構造はなぜだろうか?
作詞がそうなっていたから増築したのだろう、という単純なとらえ方をする向きもあるやも知れぬが、「都の西北」がつくられた詳細な流れについては実は謎が多い。巷間、相馬御風が一気呵成に1番から3番まで書き上げて、閲した坪内逍遙が激賞し、わずかに「早稲田、早稲田…」の7句を書き足したのみ…という話は、どうも後世になって尾ひれがついた美談らしいのである。
これは、曲の構造やつながり具合、歌詞の主題や言葉に含まれるモチーフの切れ目、さらに参考にしたであろう「Old Yale」の内容と照らし合わせてみると、詞ができて即、鉄笛のところに回されて旋律が付いた…といった、そんな単純な流れでは説明しきれない痕跡が校歌の各所に、実は見いだされるからである。
むしろ、「Old Yale」のフィナーレを鉄笛がピアノで弾いたのを耳にし、これを「早稲田、早稲田…」とあてはめ、活用してカレッヂ・ソングに仕立てることを誰かが思い付いて(おそらく坪内逍遙か島村抱月あたり)、その指示なり示唆なりに従って、楽譜の音符に合わせて御風が(七五調などと比べて、詩歌の字数としては多少イレギュラーな)八七調で書いてみて、鉄笛がそれに曲をあててみて、ああでもない、こうでもない…と何度か手直しを続けて今の形に仕上がったのではないか。
本稿で取り上げるのは、その「増改築」のうち、東儀鉄笛が曲の構造をつくる上で、どのような発想や創造性を盛り込んだのか、という考察である。
「早稲田、早稲田…」と7回も連呼する破天荒な終わり方が、この曲の一つの特徴であるが(史上最強のコマーシャル・ソングと呼んだら校友に叱られるか…)、その役割が楽曲上の締め括り、つまりフィナーレであることはどなたも納得されよう。
話は飛ぶが、実は、フィナーレの扱いはどの国どの地域の文化でも同じというわけではない。
ベートーヴェンの「英雄」「運命」「第九」あたりから、ブラームス、ブルックナー、マーラーと独墺の名だたる交響曲を聴けばすぐに分かるが、序奏にあたる第1楽章から気張らし、休憩、一休みといった「スケルツォ」「アダージョ」(この順番は入れ替わることも多い)が第2・第3楽章で続き、おしまいの第4(時に第5)楽章は、変奏やフーガを駆使し、長さや内容においてそれまでの集大成となる壮大な音楽になるのが普通である。
これは大詰めの派手な戦闘シーンが見どころのハリウッド映画の盛り上げ方などにも共通する美意識だろう。
一方、日本の伝統芸能一般を考えると、こと長さで測る限り、フィナーレの簡潔さ、短さに比べてイントロ(話の発端)の長いこと、長いこと。で、中間部というのがはっきりと分からないうちに、突如、ストーリーが急展開を迎えるものが多い。
能「紅葉狩」では、山中で美女が舞い踊る宴会に貴公子が迷い込んでいい気持ちになっている話が延々と続くが、狂言方演じる神様の使いが「こやつらは鬼の化身ぞ、退治せよ」と夢の中で告げられたら、地謡「不思議や今までありつる女…」と雰囲気は一変し、シテ「維茂(これもち)少しも騒ぎたまわず」と刀を抜いて、あっという間に終わってしまう。
能から歌舞伎に移した舞踊「京鹿子娘道成寺」なんかもそうで、白拍子の舞をじっくり見せるのが趣向だが、釣り鐘が落ちて中から蛇体の姿で出てきて花道にかかると荒武者の格好をした押し戻しに止められて幕。歌舞伎を知らない子供や外国人なら、ここからダイナミックな大立ち回りで盛り上がらないのかと思うんだろうが、あっけないぐらい素朴な終わり方が日本古来からの美意識らしい。
これは音楽に限らず、古典落語の出囃子・マクラから「オチ」に至るまでの展開でも容易に感じ取れるもので、新作は知らないが、本題のあとで後日談が延々と続くなんて落語はない。
こういった日本の伝統芸能特有の構造は、「序破急(じょはきゅう)」と呼ばれている。すなわち、発端から大した波乱もなくだらだらと話が進んで行く「序」のうちに、突如今までの流れを変えて話が急展開する要素が示される短いエピソードが「破」で、続いてさっさとフィナーレを迎えるのが「急」である。
漢詩なら「起承転結」というのがあるが、日本の場合、「転」がやたら短くて、「結」もわりとあっさり目で、「起」から「承」への変化というか区別がきわめて曖昧。しかも「転結」に比べてやたら前の方に重きが置かれて、しかもやたらに長い。
さて、早稲田大学校歌である。元になった曲がほぼ同じ長さのABCという3つの要素で組み立てられているのに比べて、「都の西北」の中間部はどうしてこんなに長いのだろうか。大正・昭和の早稲田の音楽活動に深く関わり、校歌が世に知られるのに功績大であった前坂重太郎は、「我らが日頃の…見よや」の部分をトリオと解釈していたが、長さで考えるだけでもマーチの中間部みたいな単純なABAのBではあるまい。前坂はあくまでも西洋音楽の知識で「都の西北」をとらえようとして見誤ったのだろう。
凡庸な並べ方といったら怒られるが、「都の西北」は、同じメロディーの繰り返しを2回続けている。つまり、

みやこのせいほくわせだのもりに……A
そびゆるいらかはわれらがぼこう……A’
われらがひごろのほうふをしるや……A”
しんしゅのせいしんがくのどくりつ……A”
このあと、少し音程が上がって
げんせをわすれぬくおんのりそう……A”’

なんだ、また同じ繰り返しか、と思うと、突然、これまで歌われた音階のうちで最も高い音が乱打されて!!

かがやくわれらがゆくてをみよや……B

「ええッ!?」と驚いたら、もう締め括りに入って

わせだわせだ......…………………………C

と大団円になる。
つまり、ここまでの説明でお分かりになると思うが、「都の西北」の構造は、A(序)─B(破)─C(急)という日本古来の典型的な美意識でとらえることが可能なのである。
もちろん、作曲者の東儀鉄笛がどこまで意図的にこうした形にまとめたのかは、何の資料も残っていないので推測の域を出ない。だが、東儀鉄笛は単に西洋音楽の模倣だけで作曲していたわけではない傍証は数多く知られている。
瀧廉太郎みたいにプロフィールがはっきりしていたらよかったのかもしれないが、東儀鉄笛は同一人物かと疑いたくなるほど多芸多才な人だった。
もともと明治維新になって帝に付き従って東京に移り住んだ雅楽師の家に生まれ、家業(篳篥)をついで宮内省式部職で研鑽を積んだが、ケンカして廃業。ふてくされて今の獨協大学の前身で学校経営に携わっていたのを大隈重信に見いだされて早稲田で働くようになる。音楽を捨てたわけじゃなくて、坪内逍遙の脚本に作曲したのが日本で2番目に上演されたオペラ「常闇(とこやみ)」という作品。その翌年に手がけたのが校歌の作曲。その後、演劇の道に進んで、俳優としても活躍した。
音楽について、雅楽に詳しかったのは当然として、西洋音楽にも通じピアノを弾きこなしたという。また、邦楽全般に造詣が深く、日本音楽史に関する論文を何度か雑誌で発表し、それがライフワークだった。残念なことにまだ55歳で急逝したために、その業績はほとんど知られずに終わってしまったが、鉄笛が日本の伝統音楽について深い知識と理解をもっていたことは確かである。
明治時代は音楽教育が緒に就いたばかりで、レコードや放送と言ったメディアもないから、一般の人は半音階どころかドレミファソラシドさえ正確に歌えなかったという。だから、当時の唱歌や軍歌は長調なら「ドレミ×ソラ×ド」のヨナ抜き音階と呼ばれる単純な5音階で作られるものが多かった(4番目のファと7番目のシがないから四七=ヨナ抜き)。
そんな時代に、外国の曲を参考にしたとはいえ、校歌をドレミファソラシドの1オクターブ・7音階でしっかり歌わせる曲に仕上げた鉄笛には優れた先見の明が感じられる。その一方、「序破急」といった日本の伝統的な要素をもさりげなく含んでいる独創性は、もっと評価されて良いのではないだろうか。
早稲田大学校歌の成立過程については、未解明の部分が多いけれども、一つの問題提起としてお目に留めて頂ければ幸いである。

2011年3月6日日曜日

OB/OG向けのサービス一般と演奏活動との微妙な関係

 軽音楽系のサークルだと、順繰りに入れ替わる現役生の間で少人数のバンドが組まれて、そのゆるやかな「連合体」みたいな組織になっている。稲門祭みたいな卒業生の行事でも手の空いているOBバンドのいずれかが出演するので、全体を統括するような演奏団体のようなものは成立しないようだ。一方、合唱や中・大規模な器楽系のサークルの場合、卒業後も同じサークルの看板で演奏しようと人数や年齢層においても包括的な演奏団体ができやすくて、稲門グリークラブなどはよく知られたところだろう。

 音楽サークルのOB/OG組織やその運営を考える上で、功罪相半ばする面倒な問題となりがちなのが、出身者による「演奏団体」の存在である。これは主に、名簿や会費の管理、各種行事の主催など卒団生向けの業務一般との関わり合いにおいて噴出する。

 早混の場合、創立50周年を迎えるまで現役はもとより大学の校友会からも公認される正式なOB/OG組織がなかった。その原因や背景はさておき、先行して1990年代の始めに結成された早混OB・OG合唱団では、当初「自分たちの合唱団がOB/OG会の役割を果たしてはどうか」という声が挙がっていたという。稲門グリークラブの例に倣ってということだったようだが、卒業生の演奏団体がOB/OG会そのものになろうとすると弊害も多い。

 演奏団体-ここではOB・OG合唱団-にとっては、早混の卒団生イコールわが団の団員と定義づけてしまえば、練習や演奏会に参加する人材の確保も保証されるし、会費収入が活動へのサポートとして期待できる…等々、一見いいことずくめではある。しかし、肝心の演奏団体のやっている音楽活動がそれぞれのOB/OGが現役時代から育ててきた好みや関心と合致していれば良いものの、そううまい具合には行かない。それに当人の承諾もなしに「あんたは早混の卒団生だから、うちの団員です。参加ご協力を」と見も知らぬ人たちから一方的に言われたら反発をかうはずである。まして、地方や海外に在住していたり、仕事や家庭の関係で演奏会どころではない人間にまで演奏活動の費用だかOB/OGの管理業務だか現役の支援活動だか趣旨の判然としない金を要求するのでは杜撰すぎるだろう。

 結局のところ、創立50周年を機にOB/OG通信で当時の早混の会長名で記念式典を呼びかけ、その席上でOB/OG会の設立を提案し、その後、各学年の元役職経験者などに根回ししてほぼ全ての年齢層から了解を取り付ける形で早混稲門会が発足することとなった。それでも中には情報がしっかり伝わってなかったらしく、OB・OG合唱団の活動と稲門会の業務を混同したり誤解したりする向きがあり、説明に手を焼いたこともあった。グリークラブでも、合唱団とは別にOB会として名簿管理や広報物の発行を実施する形に改めたそうである。

 早混に限らず、卒団生の演奏活動で最大の難点は、数十年に及ぶ年齢層を幅広く網羅出来るような音楽シーンを継続的に作り上げることができず、結局、特定の世代が企画や選曲を独占してしまって、他の世代に総スカンを食うという失敗をやってしまうことだが、これについては別の機会に書いてみたい。

2010年12月30日木曜日

OB・OG会は年寄り向け……では困る

 12年前の創立50周年記念パーティー以来、OB/OG向けの大規模な行事に押し寄せるのは中高年が大半ということもあり、お相伴で飲み食いさせてもらった現役の間に「稲門会とかOB会って、おじ(い)さんおば(あ)さんのための組織なんじゃないの?」といった思い込みが広まってはいないかと心配している。名前はジェネラルだが、早混OB・OG合唱団だって1960年代の先輩方が中心になってやっていて、1970年代以降の早混人はほぼ皆無という状況だから、若い連中が「稲門会なんてオレたちには関係ない」と思い込んでしまうのも無理からぬ。


 50年史を手がけ、CDの選集を出したときもそうだったが、OB/OGがらみの活動に金を出しているのは大部分が年寄りなのだから、本の内容も音源の選曲も昔のものを中心にしろ…という注文をしてくる年寄りには手を焼いた。一方で、年長者の懐ばかりアテにするなとお叱りを頂くこともあれば、筆者の同期で役員だった男からは「卒団してまだ日の浅い若い連中ほど、今の早混に対する愛着は強いはずだから、彼らにこそ積極的に資金協力を求めるべきだし、それに応える義務が若手にこそあるのではないか」という“逆転の発想”(笑)に驚かされたものである。

 要するに、老若に関係なく、自分たちが出すいわれがないか、大義名分の乏しい金の無心には気乗りしないのは当たり前なのだろう。だから(早混人のノスタルジアを人質にとっているみたいな後ろめたさもあるのだが)年会費を出し渋る人からは本やCDその他の事業活動の対価としてお金を頂くようにして、不公平感の生じないように腐心することも戦略としては重要かもしれない。しばらく前の話だが、「50年史なんてどうせ年寄りの思い出話や自慢話を並べて若い連中に買わせようというのだろう。そんなものごめんだ」とか悪態をついていたらしい学年の話を耳にしたのだが、その後、結婚式の二次会か何かで誰かが「久遠のハーモニー」を持ち込んで回し読みしたら、一気に風向きが変わって、ひと学年で十数冊も申し込みが殺到したことがあった。編集長以下、特定の年代にのみ重きを置くような本にしないよう心を鬼にして原稿や資料を揃えたのが功を奏したのだと、小躍りして喜んだ次第。OB/OG会の活動は、本来かくあるべきものなのだと思う。

 「金を出すのは年寄りだけ」という仮説は、自分たちが主導権を握りたがる年寄りが意図的に言い募っている面もあって、実際はそうでもない。数年前のデータだが、早混の創立50年史を刊行するにあたって、本の購入ないし寄付をして下さった卒団生の在籍者に対する比率を各期・各学年ごとに集計したところ、極端に金離れのよい年と悪い年はあるものの、5~10才刻みの年齢層でみると、30代の卒団生と70代の卒団生とも、協力してくれた人の割合は大差なかったのである。もちろん、仕事や子育てに忙しい年代よりは、功成り名を遂げた年代の方が金額は多かったものの、実際に関心をもち、送金されたパーセンテイジはほぼ同じだった。だから、若い連中の意向をないがしろにして年寄りの顔色ばかりうかがうようなことを続けていたら、OB/OG会やその活動は早晩行き詰まることは明らかだ。若手や中年のOB/OGの意識を無視して、「どうせ、年を取れば自然と入ってくるさ」とタカをくくっていたら、「新人」のトシヨリには見向きもされなくなってしまったOB・OG合唱団の失敗を繰り返してはなるまい。