2010年9月6日月曜日

早混の愛唱曲は捨てられる

 定期演奏会を世田谷区太子堂の昭和女子大学人見記念講堂で行うようになったのは、1985年の第30回から。当時、その前の郵便貯金ホール(港区芝・現在は「メルパルク・ホール」)の時代に渉外をやっていた先輩たちが、会場を変えると聞きつけて「そんなことをしたら自分たちの早混ではなくなってしまう。何とかやめさせることはできないか」と動揺し、憤慨した…という話が伝わっている。人見で定演を体験した25年間の世代には大きなお世話だろうし、郵貯より前の時期なら「いや[  ]で定演をやってこそ本物の早混だ。早く元に戻せ」とムキになって仰る向きもあるだろう(注:[  ]の中には、大隈講堂・共立講堂・東京文化会館大ホールなどが入る)。

 いつの時代の人間にとっても、自分たちが現役だった時代にやっていた早混こそ、懐かしい→正しい、理想の姿なんだと思考回路が出来上がっているわけ。演奏会の会場ひとつとってもこの騒ぎなんだから、ステージで何をやるかとか「HERZEN(愛唱曲集)」に何が載っているかなんて話になると、OBやOGの物の言い様は、もろ誤解やワガママのオン・パレード(笑)。

 CD10枚組の「早混・音の歩み」を製作した頃、長谷川博先生の時代(1961~65)に活躍された学生指揮者の方に「今でも現役生は『三つの民謡』を歌うことがあるのでしょうか?」と尋ねられて仰天したことがある。1970年代から現在に至る早混人は誰も知らないだろうから解説しておくと、メンデルスゾーンの無伴奏世俗合唱曲集の"Im Freien zu singen" op.41の2~4曲目を「三つの民謡」と呼び、吉田秀和の訳詞で1950年代の末からおよそ10年ほどの間、早混では愛唱曲の中の愛唱曲みたいな存在だった。今ならさしずめ木下牧子「鴎」(詞:三好達治)みたいな位置づけだったらしいが、愛唱曲の寿命は5年・10年が節目という宿命を免れず、1970年代に入った途端に「HERZEN」から削られ、あっという間に忘れ去られてしまいましたとさ――という話をすると、1960年代の先輩たちはひどくがっかりしたご様子になる。

 一度消えてしまったからといって、オレたちがあれほど夢中になって歌った、こんな良い曲なんだから、他の学年や現役たちもきっと喜んで一緒に歌ってくれるはずだ、現役のレパートリーとして是非復活してくれないか……というのは、無理な話。自分たちが使い慣れたフンドシは自分たちにしか締められないものだ。同じ早混でも5年・10年と時代が前後すれば、(流行とか世情とか要因は様々であるが)学生の音楽的意識も曲の好き嫌いも様変わりするからである。上述の「鴎」も若い子たちは好きで好きでたまらない…といった顔して歌っているが、去年、校友音楽祭の候補に挙がったときは、1960年代の先輩から「こんな地味でおとなしい曲のどこがいいんだ?」と怪訝な顔をされた。昔から、こんなことが繰り返されてきたのだろう。しかも、10年刻みの長いスタンスで徐々に変わるというよりも、わずか数年のうちに愛唱曲は陳腐化し、ゴミ箱行きになることすらあるのだから、現実は残酷というしかない。

 一例を挙げると、多田武彦「組曲・京都」収録の「ここが美しい、それは」(作詞:安水稔和)は、八尋先生の着任した1966年の学指揮ステージで取り上げられて以来、1970年代の前半には定演のアンコールで2度続けて歌われ、録音によると「私たちが日々、機会あるごとに皆で歌い、愛してやまない曲です」と紹介されているほどの愛着ぶりなのだが、それから3年ほどで「HERZEN」から消えている。筆者の勝手な憶測で恐縮だが、この曲がもてはやされたのは、学生運動が敗北と没落の末路をたどった時代と重なっており、その悲痛なまでの「滅びの美学」が先輩たちの心を揺さぶったものの、キャンパスが平静を取り戻すと急速に共感を得られなくなったからではないかと思う。

 版を重ねるたびに愛唱曲集から曲が削られるのは、事故や偶然で落ちてしまうのではないし、まして皆から惜しまれつつ姿を消すわけでもない。要するに、こんなもの歌ってないから、もういらない、他の曲と代えよう、と容赦なく捨てられてきたのである。「現役の愛唱曲集を見たら、オレたちの知らない曲ばかりじゃないか」と嘆くのは、別に50年前40年前の先輩に限った話ではない。筆者は30年前の現役だが、今の「HERZEN」で知っているのは、校歌(旧編曲)・紺碧(旧編曲)・栄光のほかは、「夜のうた」と「遙かな友に」「Ave Verum Corpus」だけ。また、若手のOB/OGから聞いた話を総合すると、卒業して10年もたてば、現役の音楽シーンと自分たちとの間にわずかながらもズレを感じるようになるという。歌っていた好きな曲が根こそぎ消えたとがっかりさせられるのは、いつでも誰にでもいずれは起こることなのだ。どれが残って、どれが捨てられるのかは、恐らく誰にも分からない。曲の生命力は、毎年受け継がれて行く歴代の早混によって左右されるからである。

 現役はもちろん世代を超えて早混人が皆で歌えるような「愛唱曲集」をつくってはどうか、との構想は以前からあって、7月の理事会でも要望が出ていた。スプリング・コンサートや新入生演奏会、フェアウェル・コンサートなどの記録を断片的に網羅して行くと、「三部作」以外に20年から30年の長きにわたって歌われていた曲というのは極めて少なく、磯部俶「遙かな友に」と佐々木伸尚「夜のうた」2曲で昔と今をカバーできる程度。いずれCDを付けて現役生向けにアンケートも実施してみたいと思うが、いくら長く歌われていても今の現役生が「こんなもの、いやだ」と拒絶反応が出そうな曲には慎重にならざるを得ないだろう。清水脩編曲による「そうらん節」「最上川舟歌」などは、1950年代の末から80年代の半ばまで演奏歴があるものの、今の若い子たちに「氷川きよしみたいな合唱曲」を付き合ってもらえるかどうか、自信はない。「昔の先輩たちが好きで歌っていたんだから、文句言わずに手伝え」と嫌々押し付けるような格好になったら、すぐにボイコットされるのがオチだろう。そもそも、いつの何を選ぶか、また、その選び方が難関だ。なるべく自分たちの時代の曲を多く入れさせようと方々でゴネられて「陣取り合戦」の様相を呈すればどうせろくなものにならないことは、団史やCDの選集を手がけていた頃にさんざん経験済みだから、特定の時代におもねることなく粛々と進めて行くのがベストだと思う。