2010年11月14日日曜日

オケ合わせの風景

 今年は5月の「第九」に8月の「平和への祈り」と、奇しくも早混稲門会の関連行事で2度もオーケストラと共演することになった。コンサートホールで客席から本番のステージを眺めるのとは正反対に、練習も含めて裏側から大勢の器楽奏者や指揮者、コンサートマスターのやり取りを見聞き出来るのは、合唱の特権でもあり楽しみでもある。

 早混に入ってくる子で中学や高校の合唱部出身者は歴代腐るほどいるだろうが、さすがに管弦楽のバックで歌い慣れた子はいないみたいだ。12月の定期演奏会直前のリハーサルがオケ合わせの初体験という新入生が大半だろうが、楽器の音が大きいのに興奮して(笑)普段以上に声を張り上げてしまう失敗は、私たちにも経験がある。何度もステージに乗っているうちに、管弦楽付きの合唱曲でもア・カペラやピアノ伴奏のときと同じように普通に歌えば、ちゃんと客席では聞こえるようになっていると分かるのだが、晴れの舞台で舞い上がっている子供たちにそんなことまで考える余裕はないから、毎年毎年の選曲の結果とはいえ、いきなりの「オケの洗礼」は酷な気もしないではない。技術委員の立場からすれば、自分のところの練習に専念してほしいのが本音だろうけれども、オケ付きの曲でもちゃんと歌えるためのノウハウを身につけるには、オフ・シーズンに「第九」の助っ人などに出向いて、楽器と合わせる演奏ではどんなことに注意しなければいけないのか体で覚えさせることも、早混の技術水準を維持・発展させるには重要かもしれない。

 管弦楽と一緒に歌うときの注意点は、音量のコントロールだけにとどまらない。コーラスの伴奏経験が豊富なピアニストだと、楽器の方で指揮者や合唱に合わせて弾いてくれるから当たり前のことと気にも留めないらしいが、声楽と違って、器楽の世界では音を奏でようとするのと実際に想定したとおりの音が出はじめる間に、微妙なタイミングのズレが発生する。これは楽器の種類や奏者のくせによってもまちまちだから、アンサンブルの練習でも指揮者の棒振りでも、そうしたズレが出てしまわないように細心の稽古をするわけである。だから、楽器の指揮と合唱の指揮は、実は同じではないのだ。こういう小難しい違いは、オケと縁遠い大学の合唱サークルあたりにいる間はなかなか分からず、社会人がやっている玄人はだしのコーラスなんかでオケ付きの大曲など場数を踏むと自然と身についてくるものらしい。この点、早混は在籍中に何度も管弦楽と一緒に歌う機会があるから、けっこう恵まれている方なのだろうが、八尋先生の手元に全神経が集中しているためか、楽器の音を聴いて声を出すという訓練が十分整わないまま本番を迎えてしまう場合もあるようだ。簡単に言うと、同じ曲の中でア・カペラのところが恐ろしく揃っているのに、オケとの掛け合いになって微妙に音程が違っていたりすることがたま~にある。ピアノ伴奏に慣れていて楽器を聞く大切さをあまり意識していないからだろう。ボーカル・スコアのピアノ譜で、ところどころにその旋律を奏でる楽器の名前が略称で書き込まれているのは、今どのへんを演奏しているかという手がかりであるのはもちろんだが、音程の入りをチェックしたり、歌と同じ旋律を弾いている楽器に注意!という重要な「交通標識」でもあることを忘れてはなるまい。

 ちなみに、早混の定演で共演して頂いている東京バッハ・カンタータ・アンサンブルは、八尋先生の合唱中心の振り方や早混のくせを熟知しているから、先生が手を振り下ろし、声が出るのに合わせて楽器が鳴るように先回りして弾いてくれている。合唱の人間にはぴんとこないが、オーケストラと指揮者の世界では、手の動きにぴったり合わせて音が揃うよう要求し、演奏するのは超一流の楽団でも嫌がる極めて難しい技術なのだそうだ(故ゲオルグ・ショルティがこのタイプの指揮者だった由)。いわば完璧な「早混仕様」なのは有り難いのだが、オーケストラというのは合唱に合わせてくれるものなのだと思い込んでしまっては世間知らずもいいところで、現役たちのためにはなるまい。(最近は機会が減ったが)六連の合同曲や早稲田祭の奏楽彩などで、よその普通の管弦楽団と演奏するときは、器楽をやる指揮者の棒に付き合って、心持ち遅れて歌わないと揃わないはずである。そんな面倒なことまでしょいこむのはごめんだから、合唱はア・カペラに限るんだなんて仰る向きもあるだろうが、合唱が中心になってクラシック音楽が動いているわけではないことも事実である。早混の子たちは4年間のうちに色々な音楽シーンに出会って刺激を受け、卒業してからも様々な形・場面で音楽に触れて行ってほしい。

 

2010年11月11日木曜日

八尋先生が早混を変えてしまった…という虚構

八尋和美先生が早混の専任指揮者に就任されたのは1966年のことで、1970年の後期からご病気のために事実上、早混の指導を離れ、復帰されるのは1975年の後期からである。いわゆる「第一次八尋時代」「八尋大不在時代」と早混の研究者が勝手に名付けているこの10年間は、早混のレパートリーのみならず演奏会のスタイルや運営全般にも大きな変化が起こった時代だった。

これに直接の関連づけをして「八尋さんがオレたちの早大混声を全然別のものに変えてしまったんだ…」と半ば恨めしげにぼやく「石田・長谷川時代」(1958~65年)の卒団生の声を聞くことがある。1960年代の早混が遠い昔の姿になって、自分たちのやっていた音楽シーンを今の現役がちっとも顧みてくれないのは「ぜ~んぶ八尋さんのせい!」と言いたいのだろうが、早混を研究してきた筆者の見るところ、1970年をはさんだ前後10年の早混の変貌は、先生お一人の「仕業」ないし「業績」とひとまとめに責任転嫁できるものではない。(これとは逆に、「『昔の早混』は全くダメな存在で、八尋先生がお越しになってから早混は大きく発展した」という言説もまた、若い連中が欺されやすい真っ赤なウソである。団員数が激増して運営面が安定し、各パートにボイストレーナーの先生を迎え、共立講堂や東京文化会館といったプロと同じ会場が使えるなど、演奏団体としてのシステムが整ったのは「石田・長谷川時代」の最大の功績だった。徳川幕府を褒めそやしたいがために、信長や秀吉の役割を過小評価するのは素人が陥りやすい誤解である。むしろ、八尋時代が始まった頃の早混は、学園紛争の影響をもろに受けて、団員数は激減するし、路線対立は起こるし、演奏会の会場が使えなくなるは、同志社との交歓演奏会が2度にわたり中止に追い込まれるは、演奏旅行が出来なくなるは…と運営面では災難続きの10年だった)

確かに、交歓演奏会や定期演奏会といったレギュラーの演目に先生の意向が働いたのは事実だが、学生指揮者の選曲、日常の「愛唱曲」の取捨選択といった箸の上げ下ろしにまで八尋先生が口出しして早混を改造したわけではなかった。これは、当時の関係者に聞いてみれば一目瞭然である。(校歌の編曲を変えさせたり、豪華なプログラムに苦言を呈したり…といった話は、1990年代を下ったずっとあとのこと)

「今に通ずる『早混らしさ』は何時ごろから出てきたのか?」と言っては紛らわしいかもしれないが、初めて取り上げた作曲家や作品が、あとの時代でも歌われる「再演度」が大幅に上昇するのは1970~75年の「八尋大不在時代」からである。高田三郎やJ.S.バッハのように既に1960年代に登場しているものもごく僅かながらあるが、間宮芳生「合唱のためのコンポジションI」のように、「(つい最近の)今の早混にも選ばれる曲」は1970年代に入って圧倒的に増えてくる。あとの時代から見て、八尋先生がおいでになった当初よりも先生が不在の時期の方が「早混色」は急速に浸透したことになる。愛唱曲の大幅な入れ替えが断行されたのも同じ頃で、要するに、いちいち先生の指図があったわけではなく、学生たちが自発的に早混の姿を変革させたのである。

これには合唱や音楽に対する学生の意識の変化があってこその話なのだが、その背景には1960年代から1970年代にかけて大学やアマチュアの合唱団、特に日本の混声合唱を取り巻く環境が著しく様変わりした点を指摘しなければなるまい。

1949年に「早稲田大学混声合唱団」を旗揚げして最初に取り上げた曲はウェーバー「祈り」で、その後1950年代のレパートリーは外国の混声合唱曲や民謡などを編曲し、日本語の訳を付けたものが大部分で(シューマン「流浪の民」など今ではお手軽な愛唱曲になったが、当時の技術的水準では年に一度の発表会で披露する「大曲」だった)、邦人作品は皆無。1960年代の初頭になると、民謡・童謡や歌曲、あるいは既存の男声合唱曲を混声に編曲したものがようやく出てくるが(清水脩「月光とピエロ」など)、日本人の作曲家が最初から混声合唱を念頭に置いて創作した楽曲が出版されたり、方々で演奏される動きは、1960年代から70年代にかけてようやく顕著になってくる。それも、最初は互いに関連性が弱い単独の小品を集めた「合唱曲集」のようなものが中心だった(大中恩「わたしの動物園」など)。ところが、アマチュアの混声合唱団の活動が盛んになり、独自に演奏会を催すようになると、単なる小品づくしのステージではなく、テーマ性のはっきりした連作詩に複数の曲をあてて20~30分ほどの構成感のしっかりした中曲に仕上がった、いわゆる「合唱組曲」と呼ばれる作品群が登場するようになって行く。

こうした小品の寄せ集めから本格的なコンサート・ピースへの移行は、1960年代の早混でも明らかで、60年代前半の石田・長谷川時代の定演や地方公演では「愛唱曲集」と銘打ったMCつきのステージが必ず盛り込まれていたのが、第一次八尋時代になると一般客向けの地方公演だけにとどまり、定演では高田三郎「水のいのち」、三善晃「嫁ぐ娘に」、團伊玖磨「岬の墓」といった従来に比べて大規模かつ技術的にも比較的高度な日本人の作品が歌われるようになる。こうして、混声合唱を念頭に創作され、もともと日本語で作詩され、日本語を念頭に作曲されたオリジナルの作品が普及するにつれて、編曲というにわか仕立ての「擬似混声合唱曲」はレパートリーから急速に姿を消していった。

この流れは、外国曲でも同様だった。ロシア民謡、フォスター、黒人霊歌といった平易で親しみやすい旋律や映画音楽やミュージカル作品からアレンジした合唱曲は定演などのレギュラーな音楽シーンから駆逐されて、地方公演・お座敷・新入生演奏会向けの存在へと「格下げ」され、ポピュラー音楽ほか種々雑多な演目が賑わっていた石田・長谷川時代とはうって変わり、早混の売り物はルネサンスやバロックの宗教作品(オラトリオではなくミサやレクイエムといった典礼文)を原語で歌うスタイルが1970年代以降はメインとなっていった。このあたりの変化に八尋先生が陰で主要な役割を果たしていたのではないかといぶかる向きもあるのだが、先生が「第一次八尋時代」に早混で取り上げられた曲目を見ると、プーランク、ドヴォルザーク、ドビュッシー、コダーイ…と後の時代からは「早混らしからぬ」作品も数多く並んでいるのには驚かされる。先生の音楽遍歴も宗教曲一辺倒で塗りつぶされていたわけではない点に注意すべきだろう。

この時代、アマチュアの合唱団や学生たちが歌う曲を探したり、新しい曲に触れる「選択の機会」は、その幅が大きく広がりつつあった。1956年の第1回定期演奏会でショスタコーヴィチ「森の歌」を取り上げたときは、誰もレコード・プレーヤーを持ってないので(もちろん極めて高価だったからである)、皆で金を出し合ってLPレコードを買い、喫茶店に持ち込んでかけてもらったという話が伝わっているが、1969年にFMラジオの本放送が始まって、比較的廉価に良質の音楽ソースが供給されるようになると、クラシックの分野でも従来知られていた「名曲」以外にもルネサンスやバロック期の作品が数多く紹介されて、未知の合唱分野への関心が高まり、レパートリーの選択肢も爆発的に増えたのである。

既に取り上げられていたバッハに加えて、パレストリーナやシュッツなど、バロック期の諸作品を得意なレパートリーとするのは1970年代を通じての傾向だが、クラシック・ファンの間でも従来のウィーン古典派と初・中期ロマン派を中心とした作曲家にとどまらず、バッハ・ヘンデル以前の音楽への関心の高まりや、ブルックナーやマーラー、R.シュトラウス、シェーンベルク以降の近現代の作品への傾倒なども見られ、こうした流れに混声合唱も大きな影響を受けて演奏会に反映されている。

1970年前後の早混の変貌は、八尋先生お一人のご意向だけで説明できるものではない。当時の学生たちである諸先輩方は時代の動きに敏感で常に新しい音楽に関心を向け、トップ・ランナーたろうとして早混を育ててきた、と見るべきだろう。