2010年8月11日水曜日

オーケストラ・ニッポニカ第18回演奏会―「日本近代音楽館」へのオマージュ

 去る8月8日に日比谷公会堂にて開催。今までも稲門祭のときに2回ほど演奏してきたが、学外で早混稲門会合唱団の名前で活動するのは初めてとなった。

オーケストラ・ニッポニカ第18回演奏会
<「日本近代音楽館」へのオマージュ>
2010年8月8日(日) 東京・日比谷公会堂
深井史郎/ 大陸の歌 (1941/43)
伊福部昭/ 管絃樂の為の音詩「寒帯林」 (1945)
深井史郎/ 「平和への祈り」
- 四人の独唱者及び合唱と大管弦楽のための交声曲 大木惇夫作詞(1949)
↑今回出演作品

*ソリスト ソプラノ 佐々木典子・アルト 穴澤ゆう子・テノール 鈴木准・バス 河野克典
*合唱 Chor June、同志社混声合唱団〈東京〉及び早混稲門会合唱団を中心とする日本近代音楽館記念合唱団(合唱指導:四野見和敏・甲田潤)
指揮 本名徹次
管弦楽 オーケストラ・ニッポニカ
主催者HP

 今回の賛助出演の依頼は、校友音楽祭でご一緒している交響楽団の若手OBの方がニッポニカに所属されていたのが縁で、うちや同志社<東京>さんに話が来たのが始まりで、OB/OG通信などの呼びかけに応じて十数名が参加を申し出て下さった。

 瀧廉太郎、大中寅二といった歌曲の編曲物や早稲田大学校歌の東儀鉄笛は別として、主に戦前・戦中に活躍した邦人作曲家となると早混では全然縁がなくて、信時潔「いろはうた」を40年以上前に同志社とのジョイント合同曲でやったぐらいしか記録がない。もちろん深井史郎も小曲ひとつやったことがないらしく(1956年に盛岡で地方公演をした際、賛助出演した地元の放送合唱団が「青春讃歌」なる作品を歌ったとの検索結果が出ただけ)、今ではほとんど忘れ去られた作曲家による未知の作品に関心を持って下さったのは有り難いことだ。稲門会の方で100部ほど楽譜を印刷して音取り用のCDをつけて配ったが、結局本番は80名ほどになった。5月の第九のときも1割ほど辞退者が出たが、今回は冒頭が4分の6拍子で大詰めの二重フーガは8分の18拍子、調号を付けずに全部臨時記号だらけというボーカル・スコアに尻込みした人もいたのではないかと思う。もっとも、音取り用の音源を楽譜作成ソフトでこしらえて、音を出してみたら、大して難しくはなかったし、事前にニッポニカから3年前に蘇演した際の録音を提供されていて、実際にどんな曲なのか把握できていたから、勧誘するにも集めやすかったこともプラスになった。

 私事で恐縮だが、深井史郎の名前を知ったのは中学生の頃に岩城宏之指揮NHK交響楽団の演奏で「パロディ的な4楽章」の放送を観たのがきっかけ。その後、遺稿をまとめた「恐るるものへの風刺  ある作曲家の発言」(音楽之友社、1965年)を高校の図書館で見つけて、巻末の作品目録に「マイクロフォンのための音楽」とか奇抜な題名が並んでいる中に、「平和への祈り」という合唱曲があったが、まさか三十数年後に自分がこの曲を歌うことになるとは思わなかった。

 深井史郎に対する再評価は、オーケストラの側から色々試みられ、語られているが、今回、コーラスの視点から重要と思われるのは、この「平和への祈り」が邦人による本格的な混声合唱曲としてはかなり早い時期のものだからだ。この時代まで、ア・カペラやピアノ伴奏も含めて、混声合唱のための邦人作品というジャンルが出来ておらず(そもそも教会のコーラス隊以外に、演奏会を活動の中心とするアマチュアの混声合唱団など皆無だったから、需要も供給もないのである)、ましてや独唱と管弦楽を伴う大規模な合唱作品が創作・演奏されるなど滅多になかった時期なのだ。それに輪をかけて今でも鑑賞に値するような曲で演奏の機会は?となれば、今回の企画は邦人合唱音楽とその成立史を知る上でも極めて貴重な場となった。一般にアマチュアの管弦楽団は、ソリストの入る楽曲は敬遠気味で、特に合唱との共演はやりたがらないものだが(自分たちのステージが侵略されたような気分になるからで、こういった誤解・偏見はコーラスの方にも多分にある)、ここのオーケストラ・ニッポニカは声楽付きの作品の上演にも大変熱心で、7年前には信時潔「海道東征」(1940年)といった大作も取り上げている。技術的な面ではもちろん、作曲家と作品本位の真摯な姿勢をとる団体と今回巡り会えたことは、私たちにとっても有益な一歩としたいものだ。

 本番を間近にしてよんどころない事情が起きて、終演後のレセプションに出られなくなったのは、かえすがえすも残念だったけれども、幸いなことにマエストロはじめオケの皆さんは合唱の仕上がりを大変評価して下さったばかりか、稲門会合唱団や本体の早混に対して今後とも是非お付き合い頂きたいと関係されたスタッフの方からお話が来ている由。いやしくも「早混」を名乗る以上、現役(早稲田大学混声合唱団)の顔に泥を塗るような真似はできないと身構えて始めた練習だったが、オケ関係者はもとより、ネットの情報では聴衆からも好評だったようで、準備に携わった一人として大変うれしい。

 OB/OG会の提供するサービスとして可能な限り多くの会員のニーズに沿った企画や活動を心がけなければならないのはもちろんのことだが、いつでも誰でもできる名曲づくしの演奏会とは対照的に、母体である早混の底力や度量が外部で評価される今回みたいな賛助出演をやってみるのも長い目で見て悪い話ではないだろう。

2010年8月3日火曜日

「早稲田の栄光」いろいろ

 「早稲田の栄光」の歌碑が大隈講堂の時計台の真下に建立されたのが縁で、2008年12月の早混の定期演奏会には作詞者の岩崎巖さんが初めて来場された。曲が生まれてから50年以上も経つのに妙な話だが、今まで岩崎さんは混声合唱による「栄光」を聴かれたことがなかったそうで、早混が保管していた音源から旧編曲、現行版、管弦楽伴奏版など取り混ぜてCDにしてお届けしたところ、丁重な礼状を頂いた。会場の昭和女子大学人見記念講堂で演奏が一通り済んで、学生指揮者が岩崎さんのご来場を伝えるよりも前に「これから『早稲田の栄光』を歌います」と言った途端に割れんばかりの拍手が起こった。1957年頃からほぼ半世紀にわたり団内で愛唱され、主立った演奏会の最後には必ず演奏するほか、新演からフェアウェルまで混声の人間は「栄光」を歌って「栄光」で卒業しております云々の話はお知らせしてあったのだが、「待ってました」と声がかかりそうな会場の雰囲気こそ、岩崎さんには一番嬉しかったのではないかと思う。
 終演後、楽譜には「補作・西條八十」とある点についてお尋ねしたところ、当時創作に使ったノートなども残っていないので記憶は定かではないけれども、4番(早混では3番を飛ばして歌っているので紛らわしいが…)の「先哲の面影偲ぶ」の箇所は自分の手によるものではなく西條先生が書き加えられたものと記憶しております、とのことだった。いずれ、団の関係で再び出版物など出すことがあれば、この件についても記しておきたい。
 校歌研究会の懇談の折に聞いた話だが、晩年の芥川也寸志さんが「栄光」の楽譜を見て、これは自分の作品ではないと仰った由。グリークラブのOB筋によると、「栄光」をグリーが初演した際の練習には芥川さんご自身が立ち会ったそうだから、単にお忘れになっていただけのことだろう。ちなみに、応援部の資料によると、曲が完成したあとに作曲料を用意したところ「早大生が皆で歌ってくれれば十分です」と言って受け取ろうとはなさらなかったので、代わりに記念品を差し上げたそうである。数多くの学生歌の中でも「校歌」「紺碧」と並んで今なお愛唱され続けているのだから、作曲者さえ予想だにしなかったかけがえのない謝礼といえるのではないか。
 「校歌」ほどの混乱はないが、実は「栄光」にも版の違いみたいなものがある。
 早混と交響楽団で使っている楽譜は上記のもので、グリークラブに伝わっている作曲者の自筆譜によれば、これが本来の旋律らしいのだが、応援部の吹奏楽団の定期演奏会でアンコールにチアリーダーの面々とブラスバンドが合同で披露する「栄光」では、下のように歌われている。
 「うけつぎて」を全音下げると、素直で平明なイメージがするし、半音だとメロディーに「一抹の寂しさ」が少し加わって、音楽的には少し気取った「芸術的」な感じがする。どうして変わってしまったのかの経緯は不明だが、どっちが正しいかなどと目くじらを立てるほどの問題でもあるまい。
 また、グリークラブとコール・フリューゲルが歌っている男声四部合唱だと、曲のおしまいに下のような「コーダ」がついている。これは、グリークラブのOBの方に尋ねてみたら、もともとはなかったけれども、こうしたらカッコいいじゃないかと、いつの頃からかやり出して、いつの間にか定着してしまったそうだ。早混や早稲オケの感覚ではオリジナルの作品に勝手に手を加えるなどとんでもないところだが、編曲や改変には寛容なグリークラブらしい。以前に校歌研究会で、「都の西北」の調や速さはどの程度まで許容されるかについて、交響楽団とグリークラブの間で大きく意見が食い違ったときのことを思い出した。