2010年6月10日木曜日

早稲田大学校歌の正しい歌い方・その3

 1907年に作詞・作曲された時の3番の歌詞は「あれ見よしこの…」だったのが、なぜか大正期になると「あれ見よしこの…」に変わってしまった話については、いずれ稿を改め自説も交えて取り上げてみるとして、ここでは元々は「あしこ」と作詞されていたのが今では「かしこ」で通っているけれども、「あしこ」も間違いではないと記すにとどめる。

 公式に認められている校歌の原典は2種あって、一つは作曲者の東儀鉄笛自筆譜と前坂重太郎校訂による早稲田マーチであるという話は前にしたが、現在、大学で配布されている「早稲田大学歌集」はどちらによるものなのか?となると、実は両者の折衷型で、歌集にはちゃんとした解説や指示が書かれていないため、戸惑う新入生も多いのではないかと思う。1番「久遠の理想」2番「理想の影は」3番「空もとどろに」の楽譜と歌詞の譜割は歌集では次のようになっている。


 2番の「理想」が現在では歌われていない形なのに加えて、2分音符にカナ2つという明治・大正期の歌に見られる曖昧な分け方をしているのに、鉄笛自筆譜の付点4分+8分の楽譜を貼り付けているのだが、これだとどこをどう歌えばよいのか、かえって分かりにくい。それぞれの楽譜を比較するとこうなる。上が自筆譜、下が早稲田マーチである。

 つまり、音符は早稲田マーチの楽譜を基本として部分的に鉄笛自筆譜で補っている一方、歌詞は1番が早稲田マーチ、2番と3番は鉄笛オリジナルの譜割を合体させている。編者は両者の歌いやすいところを重ねる意図でこうやったのだろうけれども、1番の早稲田マーチでは「ん」をどこに持って行けばいいのか判然としないし、2番では折角前坂重太郎が歌いやすく手直しした「りそう」の歌いやすさが元の不自然な譜割に戻ってしまっている。3番は早稲田マーチでは行き場のなかった「も」の扱いを鉄笛の楽譜をあてることで分かりやすく処理しているので、これは評価して良いだろう。まとめてみると、1・3番は鉄笛オリジナルの譜割の方が分かりやすく、歌いやすいし、2番は早稲田マーチの方が自然である。

 下記の楽譜は1つの提案。「2番は下の音符で歌うこと」とか注を入れたらよいのではないかと思う。

2010年6月9日水曜日

早稲田大学校歌の正しい歌い方・その2

 校歌研究会の会員だったおかげで、創立125周年の2007年秋には、資料展のパネル展示の原稿を書かせて頂いたり、楽しい思いをずいぶんさせてもらった。その中に、学内誌の原稿チェックの依頼があって、丹念にチェックしたのはよかったのだが、自分のところに回ってこなかった部分で2番の歌詞に触れた下りで「一つに渦巻く大国の…」と出てしまって、担当の方も恐縮しておいでのようだった。日露戦争に勝った後とはいえ、校歌が作詞された1907年は「東亜の新秩序」だの「大東亜共栄圏」などという忌まわしい発想は唱えられていなかった時代で、校歌の「だいとうこくの大なる使命」は「大島国」、つまり日本列島と周辺の島嶼のことで、特に侵略主義的な思想を鼓吹するものではない(変なナショナリズムにかぶれた今どきの学生だと却って勘違いしそうで困るのだが…)。校歌研究会では大隈侯晩年の主張であった「東西文明の調和」に焦点があてられ、久しく関心がもたれなかった2番の歌詞の重要性について新たな話題を提供したが、これについてはいずれ別の機会で触れてみたい。

 本題に入るが、歌い方で問題となるのは、1番と同じく「やがても久遠の理想の影は」である。作曲者・東儀鉄笛が1907年に記した譜面では、下のようになる。


 この「りーそうの」という譜割は、現在では応援部で継承されて残っているものの、一般には次の形になっている。これは、1915(大正4)年に前坂重太郎が作曲者自身の指導のもと、校歌の伴奏と和声を含む編曲譜(所謂「早稲田マーチ」)をつくった際に訂正したものとされる。


 これは「その1」でも触れたように、3文字目を伸ばすという邦楽の伝統的な歌唱法に即したもので、「りーそお」ではなくて「り・そ・おー」の方が歌いやすいから、適切な改変と言える(どうせ変えるなら、1番の久遠も大正4年に一緒に直しておいてくれたらよかったのに…)。

 2007年の125周年記念演奏会で早混、グリー、フリューゲル、早合の連合軍が交響楽団と一緒に校歌を披露したときも怪しかったが、最近でも校友会の寄付講座などで新入生が校歌を歌っているのを聴いていてぎょっとさせられるのは、1番の久遠の歌い方を入学式の歌唱指導などで「くーおーんの」とうるさく仕込まれるのが逆に災いして、きちんと教えてもらっていない2番の久遠をこんなふうに歌ってしまう現役生がけっこういるらしいのである。


 これは、作曲者自筆譜、「早稲田マーチ」改訂譜のいずれとも異なる明らかな間違いである。もともとグリークラブの男声合唱版でも早混の旧旧・旧編曲でも2番は飛ばすから、公式な場で2番をちゃんと歌う機会がない。原調のニ長調により器楽付きの伴奏譜に基づいて1番から3番まで斉唱でも歌えるようにしておいた方が良い。学内各合唱サークル、特に非インカレ系の伝統を誇る3団体の責任は重大である。

2010年6月7日月曜日

早稲田大学校歌の正しい歌い方・その1

 早慶戦の晩など、学生の騒動防止のため歌舞伎町界隈に大学から警戒・指導に出向くのが常だが、「おまえら本当に早稲田の学生なのか?本物なら『都の西北』を1番から3番まで正しく歌ってみろ」とけしかけてみると、ちゃんと歌えた学生に出会ったためしがない…と知人の早大職員がこぼしていた。

 2番・3番の歌詞がうろ覚えなのはもちろんのこと、2番半ばの譜割がいい加減なのがほとんどなのだが、恥ずかしいことに、2007年の早大125周年の記念に第九を演奏したときのアンコールで1~3番を通して斉唱したら、ものの見事に全員で2番の歌い方を間違えていた。どうせ練習もろくろくしなかったのだろう。校歌シンポジウムをやった翌日にこれだから、さすがに腰が抜けた。

 まず1番で「現世を忘れぬ」に続く「久遠の理想」の旋律だが、東儀鉄笛の自筆譜に基づいて1907年の創立25周年記念の行事で配られた楽譜では、次のようになる。

 学校が出している「早稲田大学歌集」には正しい譜面が載っているのに、講談社「日本の唱歌(下)」や野ばら社などから出ている楽譜だと次のようになっていて、これは公式の典拠に基づくものではない明らかな誤例だが、誰も訂正を申し入れていないらしく、未だに出回っている。
 「ミファソーファミ…」と歌うべきところを、「ファ」を抜かしてしまうのには訳があって、明治期の唱歌や軍歌の類は、ドレミファソラシドを全部使ったメロディーである7音階ではなく、江戸期以来の民謡や俗謡に多く見られる5音階、すなわち長調ならファとシの4・7番目を省いた「ヨナ抜き音階」と呼ばれる音階で作曲されているものが多かったため、聞き覚えと口伝えで歌われて行くうちにファ抜きで歌っていたのがそのまま採譜されたらしいのである。入学式の歌唱指導では正確に歌わせているので、現在の学生はこの種の誤りをしている者はいないみたいだが、念のため。

 下の歌い方は、恐らく大正期から1950年代の中頃まで外部ではもちろん早大関係者の間でも広く歌われていたもので、間違いというよりも「都の西北」が俗謡として「変形」したヴァリエーションと言ったほうが適切かもしれない。
 これは、金田一春彦が「日本語」(岩波新書)や「日本の唱歌(下)」(講談社文庫)でも指摘しており、次のように解説している。

これは作曲者の東儀が、「オン」は一息で一音なのだから下の譜のようにしてはまずいと思ったのであろうが、日本語では「オ」と「ン」がそれぞれ一音で、相馬も「クオン」全体を三音と数えて作詞したのだから下の譜の方が日本語の性格には叶っているというべきである。(日本の唱歌(下)48頁)
 少し補足すると、おそらく東儀鉄笛が「まずい」と判断したのは、西洋音楽では「ン」は母音ではない、分かりやすく言い換えると「ン」で伸ばす歌はないからである。これに対して、日本の伝統音楽では「ん」で引っ張る歌は特殊ではない(学術的には、「『ん』を準母音として扱う」という)。加えて、日本の歌には3文字目で伸ばすという特徴があるため、口承で広まった過程で自然に変わってしまったらしい。楽譜や音源によって歌唱指導をしていたならば、こういう歌い間違いは発生しなかったはずである。3番の歌詞で「あれみよあしこの」が「あれみよかしこの」と変わってしまったのも、この口承が重要な原因というか役割を果たしているのだ。(この記述は、藍川由美「これでいいのか、にっぽんのうた」(文春新書)180頁の瀧廉太郎「花」に関する指摘から重要な示唆を得た)
 
 上記の「くおん~の」という歌い方は、1950年代の末に東儀鉄笛の自筆の楽譜が「発見された」(*)のを機に、学内で本来の正しい楽譜に基づいて歌おうという動きが高まり、現在では、年配の校友でもない限り、「ん」を伸ばして歌われることはなくなった。
 
*戦前も東儀家に保管されていることは知られていたのだが、その後のどさくさで忘れられていたようである。大学史資料センターの学芸員の方によると、自筆譜は昭和初期に大学から戻ってきたときの封筒にそのまま入れられていて、切手と消印が押されていた由。

2010年6月6日日曜日

編曲の文化

 昨年、早稲田大学マンドリン楽部のOB/OG会の会誌に寄稿を依頼されて、考えた末に「マンクラさんの特徴は編曲の文化が伸張していることだ」と分かったようなことを書いてお茶を濁してもらったのだが、早混が取り上げてきた音楽の変遷をたどると、編曲がかなりメジャーだった時代とそうでない時期というのがはっきり分かれているようだ。
 旧8号館の部室に残されていたオープン・リールの音源の中に1960年代の六連の模様を収めたものがあって、玉川大学とか今とは異なる加盟団体の演奏も聴けるのだが、当時は邦人作曲家によるオリジナルの混声合唱曲(特にコンサート・ピースとしての合唱組曲)がまだ萌芽期にあり(東混の委嘱・初演作品では佐藤眞「旅」とか三善晃「嫁ぐ娘に」など、のちの時代にも広く受け入れられる作品は出つつあったが)、大学の混声合唱団が取り上げるのはまだオリジナルの作品はきわめて少なかったようだ。
 例えば、1958年の定期演奏会のアンコールではシャブリエの交響詩「スペイン」をそっくり混声とピアノにしたてた編曲が歌われたり、60年代後半でも玉川の六連個別曲ではヨハン・シュトラウスのポルカが混声に化けたりしている。「流浪の民」のようにオリジナルの作品をそのまま訳詞にして取り上げているなどクラシックの作品の流用や移植以外には、フォスターその他の世俗曲や外国の民謡などの編曲が一般的で、訳詞の不自然さを我慢しながらぎこちない歌い方をしているのが興味深い。
 これが1970年代になると、高田三郎、大中恩、三善晃、團伊玖磨など邦人作曲家や作品において選択肢が広がってきて、旧来の編曲物はすっかり影を潜めるようになる。このあたり、早混のレパートリーが大きく変容する時期と重なっていて、我々の団の歩みを知る上で重要なターニング・ポイントになる時期と言ってもよい(いずれ、詳しく書いてみたいと思う)。
 オリジナルの楽曲を優先して、編曲に重きを置かないのはクラシックを専ら取り上げる早混や交響楽団では顕著なようで、これに対してジャズなどの軽音楽系の世界ではアレンジ自体が一つの重要な要素を占めている。SATBなど編成が固定しているわけじゃなくて、実際に確保できるメンバーの楽器によってその都度、編曲を用意しなければ演奏が成り立たないというジャンル自体の内在的な要因があるわけだ。
 グリークラブの場合、編曲かオリジナルかという分け方においては、かなり柔軟な意識があるようで、マーラー「さすらう若人の歌」を男声合唱に仕上げたり、様々なジャンルから男声合唱の魅力を生かすようなアレンジを試行錯誤する一方で、清水脩「月光とピエロ」や多田武彦の一連の作品など男声合唱を想定して創作された楽曲にも強みを発揮している。
 早混の場合、第2次八尋時代以降はレギュラーの演奏会で編曲物をメインにすえるどころか、ほとんどオリジナルのもので固めるのが通例となっていたが、この数年、六連の個別曲で若林千春氏を始めとして、もともと合唱とは縁の無かったジャンルからの編曲を積極的に取り上げるようになったのは、一つの大きな変化と言ってよいだろう。昨年の「だんご三兄弟」みたいに、オリジナルの色彩を一切消し去って別の風景を描き出そうとする若林氏のスタンスには必ずしも賛同しかねる点もあるのだが、オリジナルの合唱曲だけでは知ることのない異次元の音楽に理解を示そうとする姿勢は、早混の音楽づくりに良い刺激となっているのではないかと思う。「早混の伝統が汚れる」とかケチな言い方はしないほうがよかろう。

2010年6月5日土曜日

往時は名物だった「早稲田の第九」

 2007年10月の創立125周年記念行事の一環として、記念会堂を会場におよそ12年ぶりに交響楽団と学内の合唱サークルが合同でベートーベンの交響曲第9番が演奏されたのも記憶に新しいところだが、1957年から1995年までの約40年間、早稲田では1年おきにクラシック系の音楽サークルが第九交響曲を披露するのが恒例の行事となっていた。
 1957年に今の記念会堂が竣工した記念として、当時の学生部長だった滝口宏教授の肝いりで始められたのだが、当時は女声の確保に苦労し、学内の合唱サークルはもとより女子学生に個人的にあたったほか、玉川大学の応援を得たのは各種資料に詳しく出ている話である。当日の進行表が残っていて、エキストラの玉川がスタンバイする時刻の他、「N響入り」という記述があって、おそらく特殊楽器など学生では手の足りなかったパートの補強として来てもらっていたのではないかと推察される。
 この手の話は大学の資料やサークルの会誌では触れられないところで、ついでにもう一つ紹介しておくと、このときの演奏が日本史上初めての学生による第九だという触れ込みになっているのだが、筆者が調べたところでは、1949(昭和24)年に仙台で東北大学の音楽部が金子登の指揮で演奏しており、これは第九の「東北初演」だったということになっている。おそらく合唱(特に女声)に関しては職員のコーラスや外部の団体の応援を得て挙行したのであろうから、学生の第九の第一号は早稲田と名乗って差し支えはないと思われるが、若干微妙なところでもある。
 話を戻して、1957年の早稲田で最初の第九は、日本楽器(ヤマハ)が試験的にステレオ録音をとっていて、あとで銀座の本店で披露したという話を複数の関係者から聞いている(ラジオのニュースでも音声が紹介されたそうである)。残念ながらテープは残っていないらしい。筆者の知るところでは、フロイデハルモニー(早稲田の第九)で最古の録音は1962年に東京文化会館で当時、「N響事件」の渦中にあった小澤征爾が指揮したときのもので、マスターは未だに行方不明だが、関係者に配布された孫コピーのテープを保管していた早混の先輩がいて、デジタルに複写したものを大学史資料センターに寄贈した。学芸員の方からは「早稲田から記念で出せませんかね」と言われたことがあるのだが、ソリストが複数のレコード会社の専属になっているほか、小澤征爾は、自分の若い(つまり、本人から見て「未熟な」)時期の演奏の復刻にはNGを出しているそうなので、残念ながら公にはできないだろう。薫陶を受けたミュンシュやバーンスタインを彷彿させる、軽やかな曲の進め方がいかにも小澤らしい演奏だった。

2010年6月4日金曜日

若林千春版の編曲をめぐって

 現役が定期演奏会で歌っている校歌の新編曲がつくられたのは1994年のことで、「変えるにあたって何か理由か経緯でもあったのか?」と年長の先輩から聞かれることがあるのだが、この年は創立○○周年とかキリのよい数字でもなかったし、特別な祝い事も思い当たらない。要するに、八尋先生が「校歌の編曲を新しいのにしたい」と言い出したから、現役の方も深い考えもなく変えてしまっただけ、というのが真相のようである。
 この頃はOB/OG会はもちろんのこと、卒団生向けの本格的な活動や行事なんてなかったから、八尋先生や現役にしてみれば校歌の編曲は自分たちのためのものでしかなかったのだろう。前の編曲に永年慣れ親しんでいたOBやOGがどう受け止めるかなんて、思い至る者もいなかったらしい(新しい編曲を先輩たちにも歌ってもらえばよいなんて言うのもいるかもしれぬが、未だに早混OB・OG合唱団は若林版を歌う気配さえ見せぬ<笑>)。OB(OG)の現役に対する影響力が強すぎて、箸の上げ下げまで口出しされているサークルだったら、まずこんなことは起きなかったのだが(グリークラブでは校歌の速さを変えただけでOBが血相変えて怒鳴り込んでくるそうである)、旧世代の先輩たちは曲想の余りの変わりように激怒した由。
 1964年に旧旧バージョンの「戸田版」を廃止して「長谷川版」に変えたときも部室に怒鳴り込んだ先輩がいて(本人から直に聞いた)、今回も八尋先生に「何で変えてしまったんですか!」と詰め寄ったそうだが、先生は黙っていたそうな。ご本人が仰らなくとも大体の察しはつく話で、第3代専任指揮者の長谷川博先生(1961~5)の時代に校歌の編曲が変わったのも先生直々のお達しによるものだった。前の「戸田版」は学生が手がけたものだから和音の処理などに誤りがあるから…といった解説をする向きもあるが、これは戸田さんに失礼な話で、戸田さんが和声学を習っていて当時は東京芸大の先生だった作曲家の石桁眞禮生(1916~96)にチェックしてもらって最終的なOKをもらったので、音楽理論上間違っているわけじゃないそうだ。
 編曲の和声なんかを自分好みにこっそりいじりたがるのは技術委員でも同じらしく、早混50年史の取材で発覚したのだが、「紺碧の空」と「早稲田の栄光」の混声版の編曲は、10年ちょっとの間に、何者かが(歴代の学生指揮者あたりに犯人がいるらしい)印刷のたびに極秘に手を加えていて、とうとう編曲者の川崎祥悦先生から「無断で変えられている」と抗議される羽目になった(1979年のことで、早混稲門会が校友音楽祭で使う楽譜は、このときの訂正版を採用したのだが「自分たちの歌っていたのと音が違う」と言われて、毎年説明するのが億劫でならぬ)。
 話を戻すと、八尋先生が校歌の編曲を変えさせたのは、今や早混の隅々まで八尋色が行き渡っているのに、玄関に鎮座している立派な置物が大昔の前任者の作というのが永年、お気に召さなかったのだろう。言うならば「のどに引っかかった最後の骨」に手を出したわけだが、さすがに30年も使い慣れていた長谷川版を即座に廃止できなかったのは誤算だったかもしれない。六連の定期演奏会で歌うときは時間の制約もあって長谷川版だし、レセプションの始まりや神宮で歌うときも清楚な響きの若林版じゃ威勢が上がらないと敬遠されているようだ。
 若林版にアレルギーを隠さないのは石田・長谷川時代以前の旧世代の先輩方に多いが、早混OB・OG合唱団の人でも「実は、個人的には好きです」という隠れキリシタンはいる。第2次八尋時代(1975~)でも20年近く長谷川版だったから、賛否両論あるのは当然として、ルネサンスやバロックの宗教音楽にシンパシーのある人には若林版は意外と人気がある(筆者の同期にも「現役のときにこんな校歌を歌いたかった」と言ってる者がいる)。
 外部の反応はもっと面白くて、うちの定期演奏会に招待されたグリークラブの人が激怒して、とある酒席で「混声には校歌を歌わせるな」と息巻いて周囲の人が止めに入ったことがある(笑)。一方で、校歌に関しては本家本元と言って過言ではない早大応援部で吹奏楽団の指導をしている人や交響楽団の顧問の方からは「混声合唱の特色を生かした良い編曲だ」とお褒めの言葉を頂いた。「オーケストラみたいでイヤだ」という一部の早混人の反応と対にとらえてみると興味深い。
 要するに、神宮球場に校旗はためくシーンとセットで「都の西北」をイメージする向きには若林版は軟弱過ぎて許し難いのだが、混声合唱の一つの表現形式として校歌を取り上げ、デモンストレーションしていると見る向きからは、素材としてのコーラスを純粋に鑑賞され、評価されているのだと思う。
 「こんなもの『都の西北』じゃない」と他所から文句でも言われたら、若林版の編曲はあくまでも「演奏会用」のものです、八尋和美先生の指導のもとルネサンスやバロック期の宗教音楽を長年にわたり取り上げてきた早稲田大学混声合唱団とは、こんな感じの合唱団ですよ、と自己紹介するためのツールなんですから、誤解なきように願います、と答えるのがいいんじゃないかと思う。現役の子と「若林版」が話題になるときは、こんなアドバイスをしている。

2010年6月2日水曜日

新入生演奏会の始まり

 現役の方では新入生の顔ぶれも揃ってきて、新入生練習も熱気を帯びている時期だろう。早混の諸制度の中で、おそらく最も成功したのが新入生演奏会であることは早混史の研究者の間でも意見が一致しているところだが(笑)、1963年に新入生演奏会(当時は「新入部員の演奏を聴く会」)が初めて開かれたときは、それほど用意周到な狙いでやったわけではなかった…という話を現役の役員にすると意外な顔をするから面白い。
 1956年に第1回の定期演奏会が大隈講堂で開かれたのは6月23日のことで、入学したばかりの部員も猛特訓してステージに乗せてしまったのは有名な話だが、この年に限らず人材不足の時代は新人だろうが何だろうがさっさと上級生の練習に組み入れて、新入生歓迎会で新入生が新入生を歓迎するような状況は1950年代の末まで続いた。
 しかし、1960年代になると折からの「合唱ブーム」で新部員の数が年ごとに倍増すると面倒な事態になってきた。始まって間もない同志社とのジョイントや六連は上級生の行事だったが(当時の六連は各団体間での申し合わせが厳しく、個別ステージの制限時間はもちろんのこと、新人は参加させないというルールも徹底していた。練習もろくろくしないで本番に出てしまうようなふざけた団体が登場するのは1970年代以降である)、入ったばかりの部員を練習だけで遊ばせておくわけにも行かないので、新人の「お披露目」「初舞台」は合唱連盟が主催する春の合唱祭だった(秋は合唱コンクール)。
 ところが、当時の合唱祭の会場は今みたいに本格的なホールが使われるわけじゃなくて、専門学校の講堂など、かなりステージの狭いところでやっていた。だから、上級生と新入生が一緒に参加すると客席や舞台袖にあふれ出すほどの人数になりつつあって、合唱祭も新入生は参加させられない、どうしようと当時の役員会が悩んだ末に、そんなら前期の練習とお披露目は新人だけ別メニューにしてみよう、と考えたのが今の新入生演奏会の始まりである。
 記録によると、1963年に初めてこれをやったときは一度きりの試みということで役員会でも翌年はやらないつもりだったらしいが、新人の育成や学年での人間関係の構築、上級生の活動への円滑な移行、等々の利点が早くも認識されるようになり、現在に至るまで50年近くにわたって団の公式な活動として優れた役割を果たすこととなったのは周知の通りである。