2011年11月21日月曜日

「都の西北」は「校歌」ではない──college anthemとcollege song

「『都の西北』は校歌ではない」と言うと、驚く方も多いと思う。名称・定義としては紛らわしく、一般に混同されているのだが、厳密には、college anthem(狭義の「校歌」)とcollege song(いわゆる「学生歌」)は役割も目的も異なるものである。
全国津々浦々の小・中・高等学校・大学で自前の歌詞にオリジナルの曲を創作する「校歌」が一大ブームとなるのは大正の終わりから昭和のはじめ頃にかけての時期であった。これ以来の校歌にまとわるイメージは、式典の際に荘重に演奏され、歌われる「聖歌」に近いものだろう。すなわち、卒業式や入学式において、学校の講堂に生徒が集められ、壇上には日章旗が掲げられ、演壇の左右には校旗と松の盆栽などが置かれ、国歌の斉唱に続いて教職員並びに生徒全員がうやうやしく歌う、あの光景である。欧米の大学には、出席者が唱和するのではなく、学内のチャペルで執り行われる式典に際し聖歌隊の演奏に全員が耳を傾ける、というパターンもあるそうだ。
この場合のanthemは、僧侶の読経や神主の祝詞と同じく、組織・集団(ここでは学校)への帰属心や忠誠の念を意識させるための有効な手段として機能している。従って、anthemは神聖な存在であって、目的外の乱用は憚られる。
 例えば、慶應義塾大学の学生並びに関係者の間では、「塾歌」を宴会などで歌ってはならない、という不文律が存在するそうである。(信時潔作曲による現在の「塾歌」は、1940年につくられた3代目。他の校歌と比べて、かなり新しい。ちなみに有名な「若き血」は1927年につくられた応援歌・学生歌である。当然のことだが、校歌ではないから、どこでどう歌おうとお咎めなしである)
 この点、昔から「都の西北」を酒席や路頭で高歌放吟させている早稲田と対照的なのだが、別に早稲田が昔からanthem(聖歌)の扱いに寛容であったとかいい加減だったということではない。そもそも、タイトルは「早稲田大学校歌」ではあるが、その成り立ちや歩みを見るに、anthemとしての色彩は極めて希薄だった。明治40年(1907年)の校歌誕生に先立ち、早稲田学報で学生たちから作歌・作曲を募集した際、採用した曲は式典でも用いる場合があることを示したものの、結局、創立25周年の記念式典では演奏の機会は与えられず、余興の寸劇の中で歌われ、夜半の提灯行列で高歌放吟される形で世に出た。つまり、当初はsongとして企図され、実践されたものであって、式典などで積極的に「都の西北」が活用されるのは、もうしばらく後の大正期に伴奏用の譜面がつくられるようになってからの話である。
 明治時代の大学関係の刊行物には、「校歌」に「カレッヂ・ソング」とルビを振るものがあり、anthemとsongの区別は曖昧だった。我が国の「寮歌」の例を挙げるまでもなく、19世紀までの欧米の大学において主流を占めたのはcollege song、すなわち「学生歌」である。当時は、音楽教育やメディアが未発達であったため、新しく曲を作って学生全員に覚えさせ普及させるのは大変困難なことだった。だから、既に広く知られ歌われている既存の軍歌、民謡、童謡、流行歌、讃美歌、さらには先行する他校の学生歌から旋律を借用し、自分たちの学校の有り様や学生気質を盛り込んだ歌詞をつけて歌う「替え歌」が学生歌の姿そのものだった。いわゆる日本の学校で「校歌」と言われるグループのうち、他よりも早い明治期に生まれたものの多くが、オリジナルの作曲ではなく、欧米の楽曲に基づく旋律が少なくないのは、本来の伝統的な学生歌の創作方法によるものだったからである。
 ここまでの説明によりお分かりのように、本来、college songとは、学校の教職員や大学当局が生徒・学生たちに公布し励行させる類のものではなく、学生たちが自分たちの存在を誇示し、仲間としての連帯意識を高めるため、自発的に生み出し、育ててきた性格が強い。「都の西北」も、坪内逍遙や島村抱月の主導でつくられたものの、いざ出来上がったあとは、事実上のほったらかし状態だった。「教育勅語」のように各学校で写しを厳重に保管し、片言隻句も違えず暗記させたのとは対照的に、早稲田大学には校歌の楽譜や歌詞の原本が保管されないどころか、歌唱指導も行われなかった。学生たちが勝手に歌い継ぎ、聞き覚えで伝えられて普及したのを受けて、anthemとしての側面も帯びるようになったと言える。
 冒頭に「『都の西北』は校歌ではない」と申し上げたのは、もともと「学生歌」として生まれ育った「都の西北」は、曲自体の持つ生命力により、歴代多くの学生たちに親しまれ、100年歌い継がれ、世に知られる存在になったのだ。従って、世間一般でイメージされている数多くの「校歌(anthem)」とは、生まれも育ちも実は全く異なった曲なのだ、という意味として受け取って頂ければ幸いである。

「都の西北」は“序破急”である

創立125周年を迎えた4年前の稲門祭では、校歌研究会によるシンポジウムが開かれたほか、会津八一記念館では大学史資料センターによる校歌関係の資料展が催され、相馬御風の揮毫や東儀鉄笛の自筆譜と並んで、イエール大学の学生歌「Old Yale」の収録された曲集が初めて一般公開された。
校歌の旋律や歌詞のモチーフなど、「都の西北」を生み出す際に参考にしたらしい箇所が見られるのだが、この学生歌自体、オリジナルの作品ではなく、1837年に英米で大ヒットしたジェームズ・ローダー作曲「The brave old oak」をもとにした替え歌である。
センターから依頼されて、「Old Yale」と「都の西北」の楽譜を部分ごとに対比させ、鉄笛がどのような箇所を下敷きにして、どういったところは使わなかったか、鉄笛のオリジナリティがどのように反映されているのか、色付きのパネルで解説させてもらった。
歌詞についての詳細な分析は別の機会とすることとして、鉄笛はオリジナルの曲をそのまま流用したわけではない。冒頭の「都の西北…」の音列と末尾の「早稲田、早稲田…」の上がり下がりを踏襲したのが目立つけれども、「我らが日頃の…」から「…行く手を見よや」までは、おそらく鉄笛が新たに書き下ろしたものであることは間違いないだろう。
今回取り上げたいテーマの出発点だが、原曲ではほぼ同じ長さの3つの曲想がABCと単純に続いているのに対し、早稲田大学校歌では、イントロの歌い出しAに比べて、真ん中のBの部分が2倍の長さに膨らんでいる一方、フィナーレのC(早稲田、早稲田…)にあたる部分を鉄笛はオリジナルのほぼ半分以下にまとめている。この曲全体の不均衡な構造はなぜだろうか?
作詞がそうなっていたから増築したのだろう、という単純なとらえ方をする向きもあるやも知れぬが、「都の西北」がつくられた詳細な流れについては実は謎が多い。巷間、相馬御風が一気呵成に1番から3番まで書き上げて、閲した坪内逍遙が激賞し、わずかに「早稲田、早稲田…」の7句を書き足したのみ…という話は、どうも後世になって尾ひれがついた美談らしいのである。
これは、曲の構造やつながり具合、歌詞の主題や言葉に含まれるモチーフの切れ目、さらに参考にしたであろう「Old Yale」の内容と照らし合わせてみると、詞ができて即、鉄笛のところに回されて旋律が付いた…といった、そんな単純な流れでは説明しきれない痕跡が校歌の各所に、実は見いだされるからである。
むしろ、「Old Yale」のフィナーレを鉄笛がピアノで弾いたのを耳にし、これを「早稲田、早稲田…」とあてはめ、活用してカレッヂ・ソングに仕立てることを誰かが思い付いて(おそらく坪内逍遙か島村抱月あたり)、その指示なり示唆なりに従って、楽譜の音符に合わせて御風が(七五調などと比べて、詩歌の字数としては多少イレギュラーな)八七調で書いてみて、鉄笛がそれに曲をあててみて、ああでもない、こうでもない…と何度か手直しを続けて今の形に仕上がったのではないか。
本稿で取り上げるのは、その「増改築」のうち、東儀鉄笛が曲の構造をつくる上で、どのような発想や創造性を盛り込んだのか、という考察である。
「早稲田、早稲田…」と7回も連呼する破天荒な終わり方が、この曲の一つの特徴であるが(史上最強のコマーシャル・ソングと呼んだら校友に叱られるか…)、その役割が楽曲上の締め括り、つまりフィナーレであることはどなたも納得されよう。
話は飛ぶが、実は、フィナーレの扱いはどの国どの地域の文化でも同じというわけではない。
ベートーヴェンの「英雄」「運命」「第九」あたりから、ブラームス、ブルックナー、マーラーと独墺の名だたる交響曲を聴けばすぐに分かるが、序奏にあたる第1楽章から気張らし、休憩、一休みといった「スケルツォ」「アダージョ」(この順番は入れ替わることも多い)が第2・第3楽章で続き、おしまいの第4(時に第5)楽章は、変奏やフーガを駆使し、長さや内容においてそれまでの集大成となる壮大な音楽になるのが普通である。
これは大詰めの派手な戦闘シーンが見どころのハリウッド映画の盛り上げ方などにも共通する美意識だろう。
一方、日本の伝統芸能一般を考えると、こと長さで測る限り、フィナーレの簡潔さ、短さに比べてイントロ(話の発端)の長いこと、長いこと。で、中間部というのがはっきりと分からないうちに、突如、ストーリーが急展開を迎えるものが多い。
能「紅葉狩」では、山中で美女が舞い踊る宴会に貴公子が迷い込んでいい気持ちになっている話が延々と続くが、狂言方演じる神様の使いが「こやつらは鬼の化身ぞ、退治せよ」と夢の中で告げられたら、地謡「不思議や今までありつる女…」と雰囲気は一変し、シテ「維茂(これもち)少しも騒ぎたまわず」と刀を抜いて、あっという間に終わってしまう。
能から歌舞伎に移した舞踊「京鹿子娘道成寺」なんかもそうで、白拍子の舞をじっくり見せるのが趣向だが、釣り鐘が落ちて中から蛇体の姿で出てきて花道にかかると荒武者の格好をした押し戻しに止められて幕。歌舞伎を知らない子供や外国人なら、ここからダイナミックな大立ち回りで盛り上がらないのかと思うんだろうが、あっけないぐらい素朴な終わり方が日本古来からの美意識らしい。
これは音楽に限らず、古典落語の出囃子・マクラから「オチ」に至るまでの展開でも容易に感じ取れるもので、新作は知らないが、本題のあとで後日談が延々と続くなんて落語はない。
こういった日本の伝統芸能特有の構造は、「序破急(じょはきゅう)」と呼ばれている。すなわち、発端から大した波乱もなくだらだらと話が進んで行く「序」のうちに、突如今までの流れを変えて話が急展開する要素が示される短いエピソードが「破」で、続いてさっさとフィナーレを迎えるのが「急」である。
漢詩なら「起承転結」というのがあるが、日本の場合、「転」がやたら短くて、「結」もわりとあっさり目で、「起」から「承」への変化というか区別がきわめて曖昧。しかも「転結」に比べてやたら前の方に重きが置かれて、しかもやたらに長い。
さて、早稲田大学校歌である。元になった曲がほぼ同じ長さのABCという3つの要素で組み立てられているのに比べて、「都の西北」の中間部はどうしてこんなに長いのだろうか。大正・昭和の早稲田の音楽活動に深く関わり、校歌が世に知られるのに功績大であった前坂重太郎は、「我らが日頃の…見よや」の部分をトリオと解釈していたが、長さで考えるだけでもマーチの中間部みたいな単純なABAのBではあるまい。前坂はあくまでも西洋音楽の知識で「都の西北」をとらえようとして見誤ったのだろう。
凡庸な並べ方といったら怒られるが、「都の西北」は、同じメロディーの繰り返しを2回続けている。つまり、

みやこのせいほくわせだのもりに……A
そびゆるいらかはわれらがぼこう……A’
われらがひごろのほうふをしるや……A”
しんしゅのせいしんがくのどくりつ……A”
このあと、少し音程が上がって
げんせをわすれぬくおんのりそう……A”’

なんだ、また同じ繰り返しか、と思うと、突然、これまで歌われた音階のうちで最も高い音が乱打されて!!

かがやくわれらがゆくてをみよや……B

「ええッ!?」と驚いたら、もう締め括りに入って

わせだわせだ......…………………………C

と大団円になる。
つまり、ここまでの説明でお分かりになると思うが、「都の西北」の構造は、A(序)─B(破)─C(急)という日本古来の典型的な美意識でとらえることが可能なのである。
もちろん、作曲者の東儀鉄笛がどこまで意図的にこうした形にまとめたのかは、何の資料も残っていないので推測の域を出ない。だが、東儀鉄笛は単に西洋音楽の模倣だけで作曲していたわけではない傍証は数多く知られている。
瀧廉太郎みたいにプロフィールがはっきりしていたらよかったのかもしれないが、東儀鉄笛は同一人物かと疑いたくなるほど多芸多才な人だった。
もともと明治維新になって帝に付き従って東京に移り住んだ雅楽師の家に生まれ、家業(篳篥)をついで宮内省式部職で研鑽を積んだが、ケンカして廃業。ふてくされて今の獨協大学の前身で学校経営に携わっていたのを大隈重信に見いだされて早稲田で働くようになる。音楽を捨てたわけじゃなくて、坪内逍遙の脚本に作曲したのが日本で2番目に上演されたオペラ「常闇(とこやみ)」という作品。その翌年に手がけたのが校歌の作曲。その後、演劇の道に進んで、俳優としても活躍した。
音楽について、雅楽に詳しかったのは当然として、西洋音楽にも通じピアノを弾きこなしたという。また、邦楽全般に造詣が深く、日本音楽史に関する論文を何度か雑誌で発表し、それがライフワークだった。残念なことにまだ55歳で急逝したために、その業績はほとんど知られずに終わってしまったが、鉄笛が日本の伝統音楽について深い知識と理解をもっていたことは確かである。
明治時代は音楽教育が緒に就いたばかりで、レコードや放送と言ったメディアもないから、一般の人は半音階どころかドレミファソラシドさえ正確に歌えなかったという。だから、当時の唱歌や軍歌は長調なら「ドレミ×ソラ×ド」のヨナ抜き音階と呼ばれる単純な5音階で作られるものが多かった(4番目のファと7番目のシがないから四七=ヨナ抜き)。
そんな時代に、外国の曲を参考にしたとはいえ、校歌をドレミファソラシドの1オクターブ・7音階でしっかり歌わせる曲に仕上げた鉄笛には優れた先見の明が感じられる。その一方、「序破急」といった日本の伝統的な要素をもさりげなく含んでいる独創性は、もっと評価されて良いのではないだろうか。
早稲田大学校歌の成立過程については、未解明の部分が多いけれども、一つの問題提起としてお目に留めて頂ければ幸いである。

2011年3月6日日曜日

OB/OG向けのサービス一般と演奏活動との微妙な関係

 軽音楽系のサークルだと、順繰りに入れ替わる現役生の間で少人数のバンドが組まれて、そのゆるやかな「連合体」みたいな組織になっている。稲門祭みたいな卒業生の行事でも手の空いているOBバンドのいずれかが出演するので、全体を統括するような演奏団体のようなものは成立しないようだ。一方、合唱や中・大規模な器楽系のサークルの場合、卒業後も同じサークルの看板で演奏しようと人数や年齢層においても包括的な演奏団体ができやすくて、稲門グリークラブなどはよく知られたところだろう。

 音楽サークルのOB/OG組織やその運営を考える上で、功罪相半ばする面倒な問題となりがちなのが、出身者による「演奏団体」の存在である。これは主に、名簿や会費の管理、各種行事の主催など卒団生向けの業務一般との関わり合いにおいて噴出する。

 早混の場合、創立50周年を迎えるまで現役はもとより大学の校友会からも公認される正式なOB/OG組織がなかった。その原因や背景はさておき、先行して1990年代の始めに結成された早混OB・OG合唱団では、当初「自分たちの合唱団がOB/OG会の役割を果たしてはどうか」という声が挙がっていたという。稲門グリークラブの例に倣ってということだったようだが、卒業生の演奏団体がOB/OG会そのものになろうとすると弊害も多い。

 演奏団体-ここではOB・OG合唱団-にとっては、早混の卒団生イコールわが団の団員と定義づけてしまえば、練習や演奏会に参加する人材の確保も保証されるし、会費収入が活動へのサポートとして期待できる…等々、一見いいことずくめではある。しかし、肝心の演奏団体のやっている音楽活動がそれぞれのOB/OGが現役時代から育ててきた好みや関心と合致していれば良いものの、そううまい具合には行かない。それに当人の承諾もなしに「あんたは早混の卒団生だから、うちの団員です。参加ご協力を」と見も知らぬ人たちから一方的に言われたら反発をかうはずである。まして、地方や海外に在住していたり、仕事や家庭の関係で演奏会どころではない人間にまで演奏活動の費用だかOB/OGの管理業務だか現役の支援活動だか趣旨の判然としない金を要求するのでは杜撰すぎるだろう。

 結局のところ、創立50周年を機にOB/OG通信で当時の早混の会長名で記念式典を呼びかけ、その席上でOB/OG会の設立を提案し、その後、各学年の元役職経験者などに根回ししてほぼ全ての年齢層から了解を取り付ける形で早混稲門会が発足することとなった。それでも中には情報がしっかり伝わってなかったらしく、OB・OG合唱団の活動と稲門会の業務を混同したり誤解したりする向きがあり、説明に手を焼いたこともあった。グリークラブでも、合唱団とは別にOB会として名簿管理や広報物の発行を実施する形に改めたそうである。

 早混に限らず、卒団生の演奏活動で最大の難点は、数十年に及ぶ年齢層を幅広く網羅出来るような音楽シーンを継続的に作り上げることができず、結局、特定の世代が企画や選曲を独占してしまって、他の世代に総スカンを食うという失敗をやってしまうことだが、これについては別の機会に書いてみたい。