2012年5月6日日曜日

東京六大学混声合唱連盟第54回定期演奏会を聴いて

昨日の午後は、上野の東京文化会館大ホールで東京六大学混声合唱連盟第54回定期演奏会。今回は法政大学アカデミー合唱団は冒頭のエール交歓のみの出演。この2月に演奏旅行の下見に現地入りしていた団員が不慮の事故で亡くなったため、活動を自粛中とのこと。

青山学院大学グリーンハーモニー合唱団はひところステージに乗るメンバーが十数名まで落ち込んだが、このところ持ち直してきた模様。現代イギリスの作曲家・Bob Chilcottのアカペラ作品から4曲。ブリテン以来の中庸な聴き心地の良い作風だが、音程がいまひとつ不安定なのが惜しい。

うちの現役(早稲田大学混声合唱団)は信長貴富編曲「アニソン・オールディーズ」より3曲。大野雄二「ルパン三世のテーマ」は、スキャットの裏拍の打ち方で切れ味がぱっとしないのはいかにもうちの不得手が出てしまっている。羽田健太郎「宝島」で急に水を得た魚みたいに音量が元気になるのにはニヤリとさせられた。「ルパン三世」もそうだが、本物の放送を同時代に観て馴染んでいると、「鉄腕アトム」で前奏や間奏が全く別のものに付け替えられているのはどうも頂けない。とはいえ、平易なメロディーを選んでいながら、かなり手の込んだ編曲を披露するのは技術的なアピールとしてよく考えていて評価したい。

東京大学柏葉会合唱団は鈴木輝明「もうひとつのかお」。早混もしばらく前に定期演奏会で取り上げた曲だが、同時代の作曲家で耳の肥えた合唱ファンをうならせるのにかけては、相変わらず柏葉はことのほかうまいとほめたくなる。人数も六団体のうちではダントツで、いい活動をしていると人材に恵まれる幸福な例だろう。

慶應義塾大学混声合唱団楽友会は武満徹「うた」より3曲を指揮された栗山文昭先生ご自身の編曲による演奏。いずれも寺嶋陸也によるピアノ伴奏付き。「死んだ男の残したものは」は林光と作曲者自身によるアレンジが知られているが、栗山版はラヴェル「夜のガスパール~絞首台」を思わせるピアノの上に女声、男声とモノフォニックに歌い込むスタイルに斬新さを感じた。「昨日のしみ」「めぐり逢い」も好演。ただ、気になったのは技術的に磨き上げた副作用なのか、人数の落ち込みがハンパではなく、青山学院と同じ規模になっているのは心配。

明治大学混声合唱団は、長年音楽監督で明混トーンを築き上げ一昨年亡くなられた高田作造先生の編曲によるカンツォーネ4曲。(言っては悪いが)イタリア・オペラの群衆の合唱ばかり20年近くも聴かされてうんざりしていたので、すごく新鮮で面白かった。ピアノにマンドリン4本の伴奏は、雰囲気があって良いのだけど、fffで合唱とピアノにかき消されてしまうのは頂けない。マンドリンとギター数名のアンサンブルの方が音が溶け込むのではないか。

合同演奏は、岩本達明の指揮によりムソルグスキー「展覧会の絵」の伊藤康英による編曲。「混声合唱とピアノ連弾のための交響的カンタータ」とタイトルにあるが、もともとは吹奏楽・サクソフォーン4重奏・ピアノ2台8手という器楽中心の大規模な編成に合唱が随所に加わる形の作品で、これを相変わらずの不見識により、ピアノ1台の4手連弾によるヴォーカル・スコアで演奏してしまった。ヴォーカル・スコアの伴奏は練習のときに便宜的に使うものであって、これ自体が聴衆に披露するに値するかどうかは甚だ疑問だ。おまけに、合唱が出てくるところだけ取り出して、あとは割愛したり、曲を縮めたりするつまみ食いでは、一貫性に欠ける。要するに「第九交響曲」で合唱の出てくるところだけ編集してピアノの伴奏で歌っているようなもので、興趣のないことおびただしい。ヴォカリーズではなくて、シラー、ゲーテその他の詩をもってきていて、第2プロムナードの大らかなメロディーに杜甫の詩をあてて中国語で歌わせたのは秀逸のアイデア。惜しむらくは、終曲「キエフの大門」をシラーの「歓喜に寄す」(第九交響曲に用いられたあれ)をドイツ語で歌ったのだが、ロシア音楽の味わいを活かすなら子音の濁り方に独特の力強さがあるロシア語でやったらアレンジの価値もさらに高まっただろう。技術的にかなりしっかりまとめていたのは評価したいが、いかんせん編成が悪い。器楽曲の1パートとして合唱が参加しているに過ぎない作品を、器楽の部分を貧弱にしたからといって合唱が引き立つわけではない。主旋律が聞こえずに「伴奏」のコーラスばかり目立つ箇所が方々に見られて、何を聴かせるつもりなのか。毎度縁故客相手に自分たちが歌うことが第一で標準的な音楽ファンの目線を軽視するから、こんな最悪な企画を考えつくのだろう。各団体ともけっこう技術的に良い演奏しているから、なおさら情けなくなった。「船頭多くして…」の体質が治らないなら、いっそのこと合同演奏をやめた方がいいのではないか。