2012年4月21日の朝日新聞朝刊の土曜版「be」に掲載の「うたの旅人」は、瀬戸口藤吉「軍艦マーチ」を取り上げている。記事の前半は、1908年(明治41年・「都の西北」の翌年)に東北の名門・盛岡第一高等学校(当時は盛岡中学)が校歌のメロディーに「軍艦マーチ」を用いた経緯について詳しくまとめているのだが、「何でまた校歌を軍歌の替え歌などに?」という背景に関して《…当時はすべてにおおらか、そのまま校歌になった。》との解説。これは誤報とまでは言わないが、かなり調べが足らないし、説明として不十分である。
スペースの都合ではしょってしまったのかもしれないが、明治時代の「校歌(カレツヂ・ソング)」は、新たに独自の作曲をするものではなく、身近に歌われ聞き慣れた俗謡・童謡・軍歌・唱歌、さらには先行する学校の校歌ないし学生歌の節回しを借用して、それぞれの校風を読み込んだ歌詞を乗せる「替え歌」がごく普通だったという学問上の常識を、どうやら朝日の記者は調べ漏らしたのではなかろうか。
学童への音楽教育が未発達で、カラオケどころかラヂオ放送や蓄音機さえ普及・存在しなかった明治以前の一般人(欧米も同じ)は、芸人や音楽家といった特殊な技能を身に付けた場合を除いて、ドレミファ…を正確に歌えなかったと言われている。わざわざ新しい曲を用意しても、練習が面倒だし、普及させるのが難しいから、出来合いの曲を流用するのが一番確実だったのだ(その点、米国の学生歌を参考にしたとはいえ、オリジナルの曲を一から歌わせ、流行らせた早稲田の例は例外中の例外と言える)。
筆者の住んでいる隣市の某小学校は、明治中期から続く古い学校だが、先年、書類の奥から昔の校歌の歌詞を記した紙が出てきて、楽譜はない。地元の古老を訪ねて回ったら「祖父母がよく歌っていた」という人がいて、確認したら旋律は当時良く流れていた軍歌「橘中佐」(作詞:鍵谷徳三郎・作曲:安田俊高)のメロディーだったという。
これは特別ではなく、和歌山県下の小学校では、歌詞だけ学校ごとに変えて、旋律は同じものを使い回ししていた例が報告されているし、盛岡中学と同じ年に京都の同志社では、「自分たちもカレツヂソングがほしい」という学生の求めに応じて、米人教師が母校のイエール大学の校歌の旋律に新たな歌詞を付けてくれた曲は現在でも同大学では親しまれている(ちなみに、オリジナルはカール・ヴィルヘルム作曲のドイツの軍歌「ラインの守り」である)。
朝日の記事の中盤では、軍国主義の鼓舞・宣伝に使われたような曲を校歌として歌うことが戦後、問題視されたことが取り上げられているけど、オリジナルの曲ではないことにケチをつけるようになったのは、大正の末から昭和にかけて、全国的に自前の歌をこしらえてもてはやす「校歌」「社歌」が一大ブームになって以降の話で、それ以前の校歌や学生歌は、そもそも成り立ちが違うということは知っておいた方がよいだろう。
元の歌がどこの国のどういう曲だったかにこだわるよりも、自分たちにふさわしい歌詞を付けて自分たちで盛り立てて育てていった「実績」自体を重要視する方が、総じて多いように思われる。
2度の大戦で敵国として戦い、多数の卒業生が命を落としたドイツの軍歌だからといって(映画「カサブランカ」の中でナチスの将校が酒場で歌っているシーンあり)、イエール大学は「Bright college years」を捨てることはなかった。
面白いことに、産経新聞が以前報じていたが、北朝鮮のマスゲームでしばしば流れる何とかという「革命歌」と大韓民国のとある大学で古くから愛唱されている学生歌は、両方ともメロディーは日本の「鉄道唱歌」をそのまま使っているそうである。
また、南北戦争の最中にリンカーンの北軍が士気を鼓舞するために歌い始めた「Tramp, Tramp, Tramp」という軍歌は、歌詞の一部を変えて南軍でも歌われ、戦後もミネソタ大の学生歌として歌い継がれ、アイルランドに伝わると独立運動の革命歌となって現在では第二の国歌としてフットボールの試合では必ず歌われ、日本では北海道大学の校歌や同志社大ラグビー部のクラブ・ソング、複数のキリスト教教団の賛美歌として、みな同じ旋律とのこと。
革命歌にせよ、学生歌、(狭義の)校歌であっても、所属する社会・団体の帰属意識やナショナリズムを自覚・強調させるための手段として用いるのが主目的だから、旋律など、覚えやすく親しみやすく歌い継がれるなら出自などどうでもよいのだろう。