2010年7月27日火曜日

客席のマナー違反とその傾向

 漫画「のだめカンタービレ」(原作:二ノ宮知子)が評判になって、オーケストラなどプロの演奏会に客が増えたのはよかったが、主催者を困らせたのは、マナーを知らない新参者がトラブルを起こすようになったことで、演奏中も喋ったり、物音がやかましいのがいる一方、これに過剰に反応してケンカになり、係員が飛んでくる…といった事件が何度かあったそうである。
 ずいぶん前の早混だが、ある年の地方公演で最前列に陣取っている母子連れがやかましく、挙げ句の果てに退屈したのか子供が舞台に上がってきて、たまりかねた八尋先生が演奏を途中で止めて子供を抱きかかえて客席に戻し、叱り付けた…という話が伝わっている(録音も残っているが、さすがにこんなものは出せない)。
 サントリーホールなど訓練を受けたフロア・アテンダントが常駐しているところだと、騒ぎを起こす者はもとよりカメラ小僧や「飲食犯」まで事を荒立てずに処理してしまうが、予算の少ない公営の施設だとその種の対応が甘くて、結果、不愉快な思いをさせられることも少なくない。
 演奏中に私語を交わす手合いというのは、クラシック・ファンが故意にやる確信犯は滅多にいなくて(よほど演奏がひどい場合は別)、大半は、この種の催し物は初めてという素人が危ない。他人に迷惑をかける気はなくても、スポーツ観戦や歌謡ショーあたりと同列に考えているらしく、叱られなくても周囲の視線に気がついて次第に大人しくなる。プロのリサイタルや定期演奏会、あと早混の定演など学生の音楽サークルには出没しないが、社会人、それも出演者に中高年の多いアマチュアの団体がからむコンサートは注意報や警報ものである。つまり、家族や友人など親しい相手を厳選してチケットを配る若手とは異なり、金に糸目を付けない「旦那芸」と化したおじさん・おばさんたちになると隣近所はもちろん取引先や飲み屋の知り合いとか、手当たり次第にばらまく傾向があるからで、その分、クラシック音楽も演奏会のマナーも知らない素人が紛れ込む危険性が高まるわけである。
 逆に、学生の音楽サークルが主催する演奏会によく出没する「迷惑お化け」は、一にOB(OG)、二に「(チケット交換で入ってくる)よその学生」だろう。
 稲門会の役員をやる前の話だが、人見の2階席で早混の開演を待っていたら、前の方で「同業者」の学生らしい数人がやかましくて、やれうちの方が早混より上手だの、格は上だのと生意気なことを言ってる。演奏が始まってもべらべらやってるなら貴様ら学生証を見せろと叱り付けてやろうかと考えているうちに静かになった。最近も、休憩中に稲門会の受付で見ていて面妖なのは、前半だけ見てアンケートを出して足早に会場を去る若い連中がいることだ。現役に聞いてみると、昔と違って今のチケット交換というのは、よそから受け取った入場券を部室に並べといて各々が面白そうなところへ自由に聴きに行く、人気がないところは残ったまま…というのではない由。交換したら、お互い何人ずつ行きますという約束ないし暗黙の了解があって、余れば下級生などにノルマを割り当てて、確かに来ましたよとアンケートに所属団体の名前を書いて帰るんだそうだ。客の入りが悪ければ公共の施設でも翌年から利用を断られてしまうこともあるから、観客動員力を維持するための互助会みたいな仕組みなのだろうが、興味や関心もないのに嫌々聴きに行ったり来たりするなら、モラルは低下するものだ(上述の旦那が配るチケットと似ている)。
 一方、OBやOGが現役の演奏会にお出ましになると、身内意識というか、自分の家みたいな感覚が悪い方向に向かって、よそでは出来ないような傍若無人な振る舞いに至ることもある。筆者が現役の頃、会場が混雑しているのに憤慨し、OBに招待席も用意できないのかと受付で怒鳴り散らしたアホな卒団生がいたそうだ。そこまでエスカレートしなくても、客席で周囲の目を気にせずに「俺たちの方がうまかった」なんて偉ぶった感想を並べている人々は意外とおいでのようだ。終演後に酒席で何を抜かそうと勝手だが、出演者の家族や友人はもちろん、他の卒団生も多数来ていて、誰が何を聞いているかも分からない場所で、関係者に不愉快な思いを抱かせるような言動は慎むべきだろう。(「自分たちが一番うまかった」と言い放つOB/OGの自慢話は真に受けないのが賢明である。大体、自分たちが入団するよりも前の早混はもちろん、卒団したあとの早混までこまめに聴き続けている者などほとんどいないはずである。自分たちより優れた演奏があっても、それを知らないか、曲の好き嫌いや演奏スタイルの違いから「他の早混」の良さを認めようとしないだけの話なのだ。自画自賛ではなく、見知らぬ世代からも評価され続けている演奏や録音こそ本物の名演だろう。)

2010年7月23日金曜日

追悼演奏

 ここで取り上げる「追悼演奏」は、所謂「追悼演奏会」とは別のものである。
 追悼演奏を行うのにはいくつか種類があって、大規模な災害や要人の逝去など、主催者とは直接関係のない不幸な出来事であっても社会的に大きな衝撃を与えた凶事に対して演奏会の冒頭にその旨を観客に伝え、亡くなった人(々)への追悼の意を表してプログラムとは別に演奏を行うのが一つの儀礼として定着している。
 卑近な例では、1995年1月に阪神・淡路大震災が起こったときには、東京でも2月頃に開かれたクラシックその他の演奏会では犠牲者に哀悼の意を表するとして、追悼演奏が行われていた。特別な事情がある場合に、出演者にとっても観客にとっても感情として知らん顔をするのが憚られるものがあり、娯楽の場であっても気持ちの整理をする意味もあるのだろう。アナウンスないし出演者が口頭により追悼演奏を行うことを伝え、演奏後に黙祷を行うので、拍手は控えて欲しいと一言添える。これをうけて観客も拍手をしないのがマナーである。
 主催者側、特に出演者の希望で行われるのは、関係者、たとえば指揮者やその団体と縁の深い音楽家が亡くなった直後の演奏会などで追悼演奏のステージを設けることがある。かつてウィーン芸術週間の最中にソヴィエト・ロシアの作曲家ドミトリイ・ショスタコーヴィチの訃報が伝えられたときには、作曲者に演奏を絶賛されて親交の深かったレナード・バーンスタインがウィーン・フィルを指揮して交響曲第5番の第3楽章を演奏した。取り上げる作品は必ずしもレクイエムといった葬送のための楽曲でなければいけないといった習慣上の制約は特にないようである(むしろ、イデオロギーや宗教・宗派の違いを越えた追悼を希望する意味での配慮もあるかもしれない)。
 早混でも以前に団員が交通事故で亡くなったときには舞台袖に遺影を飾ったり、プログラムにその旨の記載をするなど、演奏という形に限らず、しかるべき措置を執り行ったことがある。縁起でもない…なんて叱られそうだが、普段と違う出来事には何をするのか知らなかったばかりに恥をかいたり関係者に嫌な思いをさせてしまうよりも、「有職故実」をしっかりと書いたり伝えたりする方に意味があるのではないだろうか。
 2003年5月に同志社学生混声合唱団を長く指導していた榎本利彦先生が亡くなられて、翌月東京で交歓演奏会が開かれた際、東混の同僚として親しかった八尋和美先生は早混のステージでJ.S.バッハのモテットを指揮される前に榎本先生の逝去を伝え、追悼演奏としたい旨のスピーチをされたことがあった。1970年代から1990年代にかけて早稲田・同志社のジョイント・コンサートではお馴染みの方だったから10年以上前に退任されていたとはいえ、東京のお客さんにも追悼の趣旨は理解されたことと思う。ただし、少し残念に思ったのは、同志社の現役からは何のアクションもなかったことで(もちろん7月にはOB・OG会による追悼行事が京都で開かれている)、時間的な制約もあり追悼演奏どころか何をどうしてよいものか頭もまわらなかったのだろうが、ロビーに告知の文面を張り出しておくだけでもできなかったものか。現役生にそこまで期待するのは無理なのかもしれないが、「卒団生の皆様、ぜひ演奏会にお越し下さい」という言葉に気持ちがこもっているかどうかは、こういったemergencyで試されるものである。