2010年12月30日木曜日

OB・OG会は年寄り向け……では困る

 12年前の創立50周年記念パーティー以来、OB/OG向けの大規模な行事に押し寄せるのは中高年が大半ということもあり、お相伴で飲み食いさせてもらった現役の間に「稲門会とかOB会って、おじ(い)さんおば(あ)さんのための組織なんじゃないの?」といった思い込みが広まってはいないかと心配している。名前はジェネラルだが、早混OB・OG合唱団だって1960年代の先輩方が中心になってやっていて、1970年代以降の早混人はほぼ皆無という状況だから、若い連中が「稲門会なんてオレたちには関係ない」と思い込んでしまうのも無理からぬ。


 50年史を手がけ、CDの選集を出したときもそうだったが、OB/OGがらみの活動に金を出しているのは大部分が年寄りなのだから、本の内容も音源の選曲も昔のものを中心にしろ…という注文をしてくる年寄りには手を焼いた。一方で、年長者の懐ばかりアテにするなとお叱りを頂くこともあれば、筆者の同期で役員だった男からは「卒団してまだ日の浅い若い連中ほど、今の早混に対する愛着は強いはずだから、彼らにこそ積極的に資金協力を求めるべきだし、それに応える義務が若手にこそあるのではないか」という“逆転の発想”(笑)に驚かされたものである。

 要するに、老若に関係なく、自分たちが出すいわれがないか、大義名分の乏しい金の無心には気乗りしないのは当たり前なのだろう。だから(早混人のノスタルジアを人質にとっているみたいな後ろめたさもあるのだが)年会費を出し渋る人からは本やCDその他の事業活動の対価としてお金を頂くようにして、不公平感の生じないように腐心することも戦略としては重要かもしれない。しばらく前の話だが、「50年史なんてどうせ年寄りの思い出話や自慢話を並べて若い連中に買わせようというのだろう。そんなものごめんだ」とか悪態をついていたらしい学年の話を耳にしたのだが、その後、結婚式の二次会か何かで誰かが「久遠のハーモニー」を持ち込んで回し読みしたら、一気に風向きが変わって、ひと学年で十数冊も申し込みが殺到したことがあった。編集長以下、特定の年代にのみ重きを置くような本にしないよう心を鬼にして原稿や資料を揃えたのが功を奏したのだと、小躍りして喜んだ次第。OB/OG会の活動は、本来かくあるべきものなのだと思う。

 「金を出すのは年寄りだけ」という仮説は、自分たちが主導権を握りたがる年寄りが意図的に言い募っている面もあって、実際はそうでもない。数年前のデータだが、早混の創立50年史を刊行するにあたって、本の購入ないし寄付をして下さった卒団生の在籍者に対する比率を各期・各学年ごとに集計したところ、極端に金離れのよい年と悪い年はあるものの、5~10才刻みの年齢層でみると、30代の卒団生と70代の卒団生とも、協力してくれた人の割合は大差なかったのである。もちろん、仕事や子育てに忙しい年代よりは、功成り名を遂げた年代の方が金額は多かったものの、実際に関心をもち、送金されたパーセンテイジはほぼ同じだった。だから、若い連中の意向をないがしろにして年寄りの顔色ばかりうかがうようなことを続けていたら、OB/OG会やその活動は早晩行き詰まることは明らかだ。若手や中年のOB/OGの意識を無視して、「どうせ、年を取れば自然と入ってくるさ」とタカをくくっていたら、「新人」のトシヨリには見向きもされなくなってしまったOB・OG合唱団の失敗を繰り返してはなるまい。

2010年11月14日日曜日

オケ合わせの風景

 今年は5月の「第九」に8月の「平和への祈り」と、奇しくも早混稲門会の関連行事で2度もオーケストラと共演することになった。コンサートホールで客席から本番のステージを眺めるのとは正反対に、練習も含めて裏側から大勢の器楽奏者や指揮者、コンサートマスターのやり取りを見聞き出来るのは、合唱の特権でもあり楽しみでもある。

 早混に入ってくる子で中学や高校の合唱部出身者は歴代腐るほどいるだろうが、さすがに管弦楽のバックで歌い慣れた子はいないみたいだ。12月の定期演奏会直前のリハーサルがオケ合わせの初体験という新入生が大半だろうが、楽器の音が大きいのに興奮して(笑)普段以上に声を張り上げてしまう失敗は、私たちにも経験がある。何度もステージに乗っているうちに、管弦楽付きの合唱曲でもア・カペラやピアノ伴奏のときと同じように普通に歌えば、ちゃんと客席では聞こえるようになっていると分かるのだが、晴れの舞台で舞い上がっている子供たちにそんなことまで考える余裕はないから、毎年毎年の選曲の結果とはいえ、いきなりの「オケの洗礼」は酷な気もしないではない。技術委員の立場からすれば、自分のところの練習に専念してほしいのが本音だろうけれども、オケ付きの曲でもちゃんと歌えるためのノウハウを身につけるには、オフ・シーズンに「第九」の助っ人などに出向いて、楽器と合わせる演奏ではどんなことに注意しなければいけないのか体で覚えさせることも、早混の技術水準を維持・発展させるには重要かもしれない。

 管弦楽と一緒に歌うときの注意点は、音量のコントロールだけにとどまらない。コーラスの伴奏経験が豊富なピアニストだと、楽器の方で指揮者や合唱に合わせて弾いてくれるから当たり前のことと気にも留めないらしいが、声楽と違って、器楽の世界では音を奏でようとするのと実際に想定したとおりの音が出はじめる間に、微妙なタイミングのズレが発生する。これは楽器の種類や奏者のくせによってもまちまちだから、アンサンブルの練習でも指揮者の棒振りでも、そうしたズレが出てしまわないように細心の稽古をするわけである。だから、楽器の指揮と合唱の指揮は、実は同じではないのだ。こういう小難しい違いは、オケと縁遠い大学の合唱サークルあたりにいる間はなかなか分からず、社会人がやっている玄人はだしのコーラスなんかでオケ付きの大曲など場数を踏むと自然と身についてくるものらしい。この点、早混は在籍中に何度も管弦楽と一緒に歌う機会があるから、けっこう恵まれている方なのだろうが、八尋先生の手元に全神経が集中しているためか、楽器の音を聴いて声を出すという訓練が十分整わないまま本番を迎えてしまう場合もあるようだ。簡単に言うと、同じ曲の中でア・カペラのところが恐ろしく揃っているのに、オケとの掛け合いになって微妙に音程が違っていたりすることがたま~にある。ピアノ伴奏に慣れていて楽器を聞く大切さをあまり意識していないからだろう。ボーカル・スコアのピアノ譜で、ところどころにその旋律を奏でる楽器の名前が略称で書き込まれているのは、今どのへんを演奏しているかという手がかりであるのはもちろんだが、音程の入りをチェックしたり、歌と同じ旋律を弾いている楽器に注意!という重要な「交通標識」でもあることを忘れてはなるまい。

 ちなみに、早混の定演で共演して頂いている東京バッハ・カンタータ・アンサンブルは、八尋先生の合唱中心の振り方や早混のくせを熟知しているから、先生が手を振り下ろし、声が出るのに合わせて楽器が鳴るように先回りして弾いてくれている。合唱の人間にはぴんとこないが、オーケストラと指揮者の世界では、手の動きにぴったり合わせて音が揃うよう要求し、演奏するのは超一流の楽団でも嫌がる極めて難しい技術なのだそうだ(故ゲオルグ・ショルティがこのタイプの指揮者だった由)。いわば完璧な「早混仕様」なのは有り難いのだが、オーケストラというのは合唱に合わせてくれるものなのだと思い込んでしまっては世間知らずもいいところで、現役たちのためにはなるまい。(最近は機会が減ったが)六連の合同曲や早稲田祭の奏楽彩などで、よその普通の管弦楽団と演奏するときは、器楽をやる指揮者の棒に付き合って、心持ち遅れて歌わないと揃わないはずである。そんな面倒なことまでしょいこむのはごめんだから、合唱はア・カペラに限るんだなんて仰る向きもあるだろうが、合唱が中心になってクラシック音楽が動いているわけではないことも事実である。早混の子たちは4年間のうちに色々な音楽シーンに出会って刺激を受け、卒業してからも様々な形・場面で音楽に触れて行ってほしい。

 

2010年11月11日木曜日

八尋先生が早混を変えてしまった…という虚構

八尋和美先生が早混の専任指揮者に就任されたのは1966年のことで、1970年の後期からご病気のために事実上、早混の指導を離れ、復帰されるのは1975年の後期からである。いわゆる「第一次八尋時代」「八尋大不在時代」と早混の研究者が勝手に名付けているこの10年間は、早混のレパートリーのみならず演奏会のスタイルや運営全般にも大きな変化が起こった時代だった。

これに直接の関連づけをして「八尋さんがオレたちの早大混声を全然別のものに変えてしまったんだ…」と半ば恨めしげにぼやく「石田・長谷川時代」(1958~65年)の卒団生の声を聞くことがある。1960年代の早混が遠い昔の姿になって、自分たちのやっていた音楽シーンを今の現役がちっとも顧みてくれないのは「ぜ~んぶ八尋さんのせい!」と言いたいのだろうが、早混を研究してきた筆者の見るところ、1970年をはさんだ前後10年の早混の変貌は、先生お一人の「仕業」ないし「業績」とひとまとめに責任転嫁できるものではない。(これとは逆に、「『昔の早混』は全くダメな存在で、八尋先生がお越しになってから早混は大きく発展した」という言説もまた、若い連中が欺されやすい真っ赤なウソである。団員数が激増して運営面が安定し、各パートにボイストレーナーの先生を迎え、共立講堂や東京文化会館といったプロと同じ会場が使えるなど、演奏団体としてのシステムが整ったのは「石田・長谷川時代」の最大の功績だった。徳川幕府を褒めそやしたいがために、信長や秀吉の役割を過小評価するのは素人が陥りやすい誤解である。むしろ、八尋時代が始まった頃の早混は、学園紛争の影響をもろに受けて、団員数は激減するし、路線対立は起こるし、演奏会の会場が使えなくなるは、同志社との交歓演奏会が2度にわたり中止に追い込まれるは、演奏旅行が出来なくなるは…と運営面では災難続きの10年だった)

確かに、交歓演奏会や定期演奏会といったレギュラーの演目に先生の意向が働いたのは事実だが、学生指揮者の選曲、日常の「愛唱曲」の取捨選択といった箸の上げ下ろしにまで八尋先生が口出しして早混を改造したわけではなかった。これは、当時の関係者に聞いてみれば一目瞭然である。(校歌の編曲を変えさせたり、豪華なプログラムに苦言を呈したり…といった話は、1990年代を下ったずっとあとのこと)

「今に通ずる『早混らしさ』は何時ごろから出てきたのか?」と言っては紛らわしいかもしれないが、初めて取り上げた作曲家や作品が、あとの時代でも歌われる「再演度」が大幅に上昇するのは1970~75年の「八尋大不在時代」からである。高田三郎やJ.S.バッハのように既に1960年代に登場しているものもごく僅かながらあるが、間宮芳生「合唱のためのコンポジションI」のように、「(つい最近の)今の早混にも選ばれる曲」は1970年代に入って圧倒的に増えてくる。あとの時代から見て、八尋先生がおいでになった当初よりも先生が不在の時期の方が「早混色」は急速に浸透したことになる。愛唱曲の大幅な入れ替えが断行されたのも同じ頃で、要するに、いちいち先生の指図があったわけではなく、学生たちが自発的に早混の姿を変革させたのである。

これには合唱や音楽に対する学生の意識の変化があってこその話なのだが、その背景には1960年代から1970年代にかけて大学やアマチュアの合唱団、特に日本の混声合唱を取り巻く環境が著しく様変わりした点を指摘しなければなるまい。

1949年に「早稲田大学混声合唱団」を旗揚げして最初に取り上げた曲はウェーバー「祈り」で、その後1950年代のレパートリーは外国の混声合唱曲や民謡などを編曲し、日本語の訳を付けたものが大部分で(シューマン「流浪の民」など今ではお手軽な愛唱曲になったが、当時の技術的水準では年に一度の発表会で披露する「大曲」だった)、邦人作品は皆無。1960年代の初頭になると、民謡・童謡や歌曲、あるいは既存の男声合唱曲を混声に編曲したものがようやく出てくるが(清水脩「月光とピエロ」など)、日本人の作曲家が最初から混声合唱を念頭に置いて創作した楽曲が出版されたり、方々で演奏される動きは、1960年代から70年代にかけてようやく顕著になってくる。それも、最初は互いに関連性が弱い単独の小品を集めた「合唱曲集」のようなものが中心だった(大中恩「わたしの動物園」など)。ところが、アマチュアの混声合唱団の活動が盛んになり、独自に演奏会を催すようになると、単なる小品づくしのステージではなく、テーマ性のはっきりした連作詩に複数の曲をあてて20~30分ほどの構成感のしっかりした中曲に仕上がった、いわゆる「合唱組曲」と呼ばれる作品群が登場するようになって行く。

こうした小品の寄せ集めから本格的なコンサート・ピースへの移行は、1960年代の早混でも明らかで、60年代前半の石田・長谷川時代の定演や地方公演では「愛唱曲集」と銘打ったMCつきのステージが必ず盛り込まれていたのが、第一次八尋時代になると一般客向けの地方公演だけにとどまり、定演では高田三郎「水のいのち」、三善晃「嫁ぐ娘に」、團伊玖磨「岬の墓」といった従来に比べて大規模かつ技術的にも比較的高度な日本人の作品が歌われるようになる。こうして、混声合唱を念頭に創作され、もともと日本語で作詩され、日本語を念頭に作曲されたオリジナルの作品が普及するにつれて、編曲というにわか仕立ての「擬似混声合唱曲」はレパートリーから急速に姿を消していった。

この流れは、外国曲でも同様だった。ロシア民謡、フォスター、黒人霊歌といった平易で親しみやすい旋律や映画音楽やミュージカル作品からアレンジした合唱曲は定演などのレギュラーな音楽シーンから駆逐されて、地方公演・お座敷・新入生演奏会向けの存在へと「格下げ」され、ポピュラー音楽ほか種々雑多な演目が賑わっていた石田・長谷川時代とはうって変わり、早混の売り物はルネサンスやバロックの宗教作品(オラトリオではなくミサやレクイエムといった典礼文)を原語で歌うスタイルが1970年代以降はメインとなっていった。このあたりの変化に八尋先生が陰で主要な役割を果たしていたのではないかといぶかる向きもあるのだが、先生が「第一次八尋時代」に早混で取り上げられた曲目を見ると、プーランク、ドヴォルザーク、ドビュッシー、コダーイ…と後の時代からは「早混らしからぬ」作品も数多く並んでいるのには驚かされる。先生の音楽遍歴も宗教曲一辺倒で塗りつぶされていたわけではない点に注意すべきだろう。

この時代、アマチュアの合唱団や学生たちが歌う曲を探したり、新しい曲に触れる「選択の機会」は、その幅が大きく広がりつつあった。1956年の第1回定期演奏会でショスタコーヴィチ「森の歌」を取り上げたときは、誰もレコード・プレーヤーを持ってないので(もちろん極めて高価だったからである)、皆で金を出し合ってLPレコードを買い、喫茶店に持ち込んでかけてもらったという話が伝わっているが、1969年にFMラジオの本放送が始まって、比較的廉価に良質の音楽ソースが供給されるようになると、クラシックの分野でも従来知られていた「名曲」以外にもルネサンスやバロック期の作品が数多く紹介されて、未知の合唱分野への関心が高まり、レパートリーの選択肢も爆発的に増えたのである。

既に取り上げられていたバッハに加えて、パレストリーナやシュッツなど、バロック期の諸作品を得意なレパートリーとするのは1970年代を通じての傾向だが、クラシック・ファンの間でも従来のウィーン古典派と初・中期ロマン派を中心とした作曲家にとどまらず、バッハ・ヘンデル以前の音楽への関心の高まりや、ブルックナーやマーラー、R.シュトラウス、シェーンベルク以降の近現代の作品への傾倒なども見られ、こうした流れに混声合唱も大きな影響を受けて演奏会に反映されている。

1970年前後の早混の変貌は、八尋先生お一人のご意向だけで説明できるものではない。当時の学生たちである諸先輩方は時代の動きに敏感で常に新しい音楽に関心を向け、トップ・ランナーたろうとして早混を育ててきた、と見るべきだろう。

2010年9月6日月曜日

早混の愛唱曲は捨てられる

 定期演奏会を世田谷区太子堂の昭和女子大学人見記念講堂で行うようになったのは、1985年の第30回から。当時、その前の郵便貯金ホール(港区芝・現在は「メルパルク・ホール」)の時代に渉外をやっていた先輩たちが、会場を変えると聞きつけて「そんなことをしたら自分たちの早混ではなくなってしまう。何とかやめさせることはできないか」と動揺し、憤慨した…という話が伝わっている。人見で定演を体験した25年間の世代には大きなお世話だろうし、郵貯より前の時期なら「いや[  ]で定演をやってこそ本物の早混だ。早く元に戻せ」とムキになって仰る向きもあるだろう(注:[  ]の中には、大隈講堂・共立講堂・東京文化会館大ホールなどが入る)。

 いつの時代の人間にとっても、自分たちが現役だった時代にやっていた早混こそ、懐かしい→正しい、理想の姿なんだと思考回路が出来上がっているわけ。演奏会の会場ひとつとってもこの騒ぎなんだから、ステージで何をやるかとか「HERZEN(愛唱曲集)」に何が載っているかなんて話になると、OBやOGの物の言い様は、もろ誤解やワガママのオン・パレード(笑)。

 CD10枚組の「早混・音の歩み」を製作した頃、長谷川博先生の時代(1961~65)に活躍された学生指揮者の方に「今でも現役生は『三つの民謡』を歌うことがあるのでしょうか?」と尋ねられて仰天したことがある。1970年代から現在に至る早混人は誰も知らないだろうから解説しておくと、メンデルスゾーンの無伴奏世俗合唱曲集の"Im Freien zu singen" op.41の2~4曲目を「三つの民謡」と呼び、吉田秀和の訳詞で1950年代の末からおよそ10年ほどの間、早混では愛唱曲の中の愛唱曲みたいな存在だった。今ならさしずめ木下牧子「鴎」(詞:三好達治)みたいな位置づけだったらしいが、愛唱曲の寿命は5年・10年が節目という宿命を免れず、1970年代に入った途端に「HERZEN」から削られ、あっという間に忘れ去られてしまいましたとさ――という話をすると、1960年代の先輩たちはひどくがっかりしたご様子になる。

 一度消えてしまったからといって、オレたちがあれほど夢中になって歌った、こんな良い曲なんだから、他の学年や現役たちもきっと喜んで一緒に歌ってくれるはずだ、現役のレパートリーとして是非復活してくれないか……というのは、無理な話。自分たちが使い慣れたフンドシは自分たちにしか締められないものだ。同じ早混でも5年・10年と時代が前後すれば、(流行とか世情とか要因は様々であるが)学生の音楽的意識も曲の好き嫌いも様変わりするからである。上述の「鴎」も若い子たちは好きで好きでたまらない…といった顔して歌っているが、去年、校友音楽祭の候補に挙がったときは、1960年代の先輩から「こんな地味でおとなしい曲のどこがいいんだ?」と怪訝な顔をされた。昔から、こんなことが繰り返されてきたのだろう。しかも、10年刻みの長いスタンスで徐々に変わるというよりも、わずか数年のうちに愛唱曲は陳腐化し、ゴミ箱行きになることすらあるのだから、現実は残酷というしかない。

 一例を挙げると、多田武彦「組曲・京都」収録の「ここが美しい、それは」(作詞:安水稔和)は、八尋先生の着任した1966年の学指揮ステージで取り上げられて以来、1970年代の前半には定演のアンコールで2度続けて歌われ、録音によると「私たちが日々、機会あるごとに皆で歌い、愛してやまない曲です」と紹介されているほどの愛着ぶりなのだが、それから3年ほどで「HERZEN」から消えている。筆者の勝手な憶測で恐縮だが、この曲がもてはやされたのは、学生運動が敗北と没落の末路をたどった時代と重なっており、その悲痛なまでの「滅びの美学」が先輩たちの心を揺さぶったものの、キャンパスが平静を取り戻すと急速に共感を得られなくなったからではないかと思う。

 版を重ねるたびに愛唱曲集から曲が削られるのは、事故や偶然で落ちてしまうのではないし、まして皆から惜しまれつつ姿を消すわけでもない。要するに、こんなもの歌ってないから、もういらない、他の曲と代えよう、と容赦なく捨てられてきたのである。「現役の愛唱曲集を見たら、オレたちの知らない曲ばかりじゃないか」と嘆くのは、別に50年前40年前の先輩に限った話ではない。筆者は30年前の現役だが、今の「HERZEN」で知っているのは、校歌(旧編曲)・紺碧(旧編曲)・栄光のほかは、「夜のうた」と「遙かな友に」「Ave Verum Corpus」だけ。また、若手のOB/OGから聞いた話を総合すると、卒業して10年もたてば、現役の音楽シーンと自分たちとの間にわずかながらもズレを感じるようになるという。歌っていた好きな曲が根こそぎ消えたとがっかりさせられるのは、いつでも誰にでもいずれは起こることなのだ。どれが残って、どれが捨てられるのかは、恐らく誰にも分からない。曲の生命力は、毎年受け継がれて行く歴代の早混によって左右されるからである。

 現役はもちろん世代を超えて早混人が皆で歌えるような「愛唱曲集」をつくってはどうか、との構想は以前からあって、7月の理事会でも要望が出ていた。スプリング・コンサートや新入生演奏会、フェアウェル・コンサートなどの記録を断片的に網羅して行くと、「三部作」以外に20年から30年の長きにわたって歌われていた曲というのは極めて少なく、磯部俶「遙かな友に」と佐々木伸尚「夜のうた」2曲で昔と今をカバーできる程度。いずれCDを付けて現役生向けにアンケートも実施してみたいと思うが、いくら長く歌われていても今の現役生が「こんなもの、いやだ」と拒絶反応が出そうな曲には慎重にならざるを得ないだろう。清水脩編曲による「そうらん節」「最上川舟歌」などは、1950年代の末から80年代の半ばまで演奏歴があるものの、今の若い子たちに「氷川きよしみたいな合唱曲」を付き合ってもらえるかどうか、自信はない。「昔の先輩たちが好きで歌っていたんだから、文句言わずに手伝え」と嫌々押し付けるような格好になったら、すぐにボイコットされるのがオチだろう。そもそも、いつの何を選ぶか、また、その選び方が難関だ。なるべく自分たちの時代の曲を多く入れさせようと方々でゴネられて「陣取り合戦」の様相を呈すればどうせろくなものにならないことは、団史やCDの選集を手がけていた頃にさんざん経験済みだから、特定の時代におもねることなく粛々と進めて行くのがベストだと思う。

2010年8月11日水曜日

オーケストラ・ニッポニカ第18回演奏会―「日本近代音楽館」へのオマージュ

 去る8月8日に日比谷公会堂にて開催。今までも稲門祭のときに2回ほど演奏してきたが、学外で早混稲門会合唱団の名前で活動するのは初めてとなった。

オーケストラ・ニッポニカ第18回演奏会
<「日本近代音楽館」へのオマージュ>
2010年8月8日(日) 東京・日比谷公会堂
深井史郎/ 大陸の歌 (1941/43)
伊福部昭/ 管絃樂の為の音詩「寒帯林」 (1945)
深井史郎/ 「平和への祈り」
- 四人の独唱者及び合唱と大管弦楽のための交声曲 大木惇夫作詞(1949)
↑今回出演作品

*ソリスト ソプラノ 佐々木典子・アルト 穴澤ゆう子・テノール 鈴木准・バス 河野克典
*合唱 Chor June、同志社混声合唱団〈東京〉及び早混稲門会合唱団を中心とする日本近代音楽館記念合唱団(合唱指導:四野見和敏・甲田潤)
指揮 本名徹次
管弦楽 オーケストラ・ニッポニカ
主催者HP

 今回の賛助出演の依頼は、校友音楽祭でご一緒している交響楽団の若手OBの方がニッポニカに所属されていたのが縁で、うちや同志社<東京>さんに話が来たのが始まりで、OB/OG通信などの呼びかけに応じて十数名が参加を申し出て下さった。

 瀧廉太郎、大中寅二といった歌曲の編曲物や早稲田大学校歌の東儀鉄笛は別として、主に戦前・戦中に活躍した邦人作曲家となると早混では全然縁がなくて、信時潔「いろはうた」を40年以上前に同志社とのジョイント合同曲でやったぐらいしか記録がない。もちろん深井史郎も小曲ひとつやったことがないらしく(1956年に盛岡で地方公演をした際、賛助出演した地元の放送合唱団が「青春讃歌」なる作品を歌ったとの検索結果が出ただけ)、今ではほとんど忘れ去られた作曲家による未知の作品に関心を持って下さったのは有り難いことだ。稲門会の方で100部ほど楽譜を印刷して音取り用のCDをつけて配ったが、結局本番は80名ほどになった。5月の第九のときも1割ほど辞退者が出たが、今回は冒頭が4分の6拍子で大詰めの二重フーガは8分の18拍子、調号を付けずに全部臨時記号だらけというボーカル・スコアに尻込みした人もいたのではないかと思う。もっとも、音取り用の音源を楽譜作成ソフトでこしらえて、音を出してみたら、大して難しくはなかったし、事前にニッポニカから3年前に蘇演した際の録音を提供されていて、実際にどんな曲なのか把握できていたから、勧誘するにも集めやすかったこともプラスになった。

 私事で恐縮だが、深井史郎の名前を知ったのは中学生の頃に岩城宏之指揮NHK交響楽団の演奏で「パロディ的な4楽章」の放送を観たのがきっかけ。その後、遺稿をまとめた「恐るるものへの風刺  ある作曲家の発言」(音楽之友社、1965年)を高校の図書館で見つけて、巻末の作品目録に「マイクロフォンのための音楽」とか奇抜な題名が並んでいる中に、「平和への祈り」という合唱曲があったが、まさか三十数年後に自分がこの曲を歌うことになるとは思わなかった。

 深井史郎に対する再評価は、オーケストラの側から色々試みられ、語られているが、今回、コーラスの視点から重要と思われるのは、この「平和への祈り」が邦人による本格的な混声合唱曲としてはかなり早い時期のものだからだ。この時代まで、ア・カペラやピアノ伴奏も含めて、混声合唱のための邦人作品というジャンルが出来ておらず(そもそも教会のコーラス隊以外に、演奏会を活動の中心とするアマチュアの混声合唱団など皆無だったから、需要も供給もないのである)、ましてや独唱と管弦楽を伴う大規模な合唱作品が創作・演奏されるなど滅多になかった時期なのだ。それに輪をかけて今でも鑑賞に値するような曲で演奏の機会は?となれば、今回の企画は邦人合唱音楽とその成立史を知る上でも極めて貴重な場となった。一般にアマチュアの管弦楽団は、ソリストの入る楽曲は敬遠気味で、特に合唱との共演はやりたがらないものだが(自分たちのステージが侵略されたような気分になるからで、こういった誤解・偏見はコーラスの方にも多分にある)、ここのオーケストラ・ニッポニカは声楽付きの作品の上演にも大変熱心で、7年前には信時潔「海道東征」(1940年)といった大作も取り上げている。技術的な面ではもちろん、作曲家と作品本位の真摯な姿勢をとる団体と今回巡り会えたことは、私たちにとっても有益な一歩としたいものだ。

 本番を間近にしてよんどころない事情が起きて、終演後のレセプションに出られなくなったのは、かえすがえすも残念だったけれども、幸いなことにマエストロはじめオケの皆さんは合唱の仕上がりを大変評価して下さったばかりか、稲門会合唱団や本体の早混に対して今後とも是非お付き合い頂きたいと関係されたスタッフの方からお話が来ている由。いやしくも「早混」を名乗る以上、現役(早稲田大学混声合唱団)の顔に泥を塗るような真似はできないと身構えて始めた練習だったが、オケ関係者はもとより、ネットの情報では聴衆からも好評だったようで、準備に携わった一人として大変うれしい。

 OB/OG会の提供するサービスとして可能な限り多くの会員のニーズに沿った企画や活動を心がけなければならないのはもちろんのことだが、いつでも誰でもできる名曲づくしの演奏会とは対照的に、母体である早混の底力や度量が外部で評価される今回みたいな賛助出演をやってみるのも長い目で見て悪い話ではないだろう。

2010年8月3日火曜日

「早稲田の栄光」いろいろ

 「早稲田の栄光」の歌碑が大隈講堂の時計台の真下に建立されたのが縁で、2008年12月の早混の定期演奏会には作詞者の岩崎巖さんが初めて来場された。曲が生まれてから50年以上も経つのに妙な話だが、今まで岩崎さんは混声合唱による「栄光」を聴かれたことがなかったそうで、早混が保管していた音源から旧編曲、現行版、管弦楽伴奏版など取り混ぜてCDにしてお届けしたところ、丁重な礼状を頂いた。会場の昭和女子大学人見記念講堂で演奏が一通り済んで、学生指揮者が岩崎さんのご来場を伝えるよりも前に「これから『早稲田の栄光』を歌います」と言った途端に割れんばかりの拍手が起こった。1957年頃からほぼ半世紀にわたり団内で愛唱され、主立った演奏会の最後には必ず演奏するほか、新演からフェアウェルまで混声の人間は「栄光」を歌って「栄光」で卒業しております云々の話はお知らせしてあったのだが、「待ってました」と声がかかりそうな会場の雰囲気こそ、岩崎さんには一番嬉しかったのではないかと思う。
 終演後、楽譜には「補作・西條八十」とある点についてお尋ねしたところ、当時創作に使ったノートなども残っていないので記憶は定かではないけれども、4番(早混では3番を飛ばして歌っているので紛らわしいが…)の「先哲の面影偲ぶ」の箇所は自分の手によるものではなく西條先生が書き加えられたものと記憶しております、とのことだった。いずれ、団の関係で再び出版物など出すことがあれば、この件についても記しておきたい。
 校歌研究会の懇談の折に聞いた話だが、晩年の芥川也寸志さんが「栄光」の楽譜を見て、これは自分の作品ではないと仰った由。グリークラブのOB筋によると、「栄光」をグリーが初演した際の練習には芥川さんご自身が立ち会ったそうだから、単にお忘れになっていただけのことだろう。ちなみに、応援部の資料によると、曲が完成したあとに作曲料を用意したところ「早大生が皆で歌ってくれれば十分です」と言って受け取ろうとはなさらなかったので、代わりに記念品を差し上げたそうである。数多くの学生歌の中でも「校歌」「紺碧」と並んで今なお愛唱され続けているのだから、作曲者さえ予想だにしなかったかけがえのない謝礼といえるのではないか。
 「校歌」ほどの混乱はないが、実は「栄光」にも版の違いみたいなものがある。
 早混と交響楽団で使っている楽譜は上記のもので、グリークラブに伝わっている作曲者の自筆譜によれば、これが本来の旋律らしいのだが、応援部の吹奏楽団の定期演奏会でアンコールにチアリーダーの面々とブラスバンドが合同で披露する「栄光」では、下のように歌われている。
 「うけつぎて」を全音下げると、素直で平明なイメージがするし、半音だとメロディーに「一抹の寂しさ」が少し加わって、音楽的には少し気取った「芸術的」な感じがする。どうして変わってしまったのかの経緯は不明だが、どっちが正しいかなどと目くじらを立てるほどの問題でもあるまい。
 また、グリークラブとコール・フリューゲルが歌っている男声四部合唱だと、曲のおしまいに下のような「コーダ」がついている。これは、グリークラブのOBの方に尋ねてみたら、もともとはなかったけれども、こうしたらカッコいいじゃないかと、いつの頃からかやり出して、いつの間にか定着してしまったそうだ。早混や早稲オケの感覚ではオリジナルの作品に勝手に手を加えるなどとんでもないところだが、編曲や改変には寛容なグリークラブらしい。以前に校歌研究会で、「都の西北」の調や速さはどの程度まで許容されるかについて、交響楽団とグリークラブの間で大きく意見が食い違ったときのことを思い出した。

2010年7月27日火曜日

客席のマナー違反とその傾向

 漫画「のだめカンタービレ」(原作:二ノ宮知子)が評判になって、オーケストラなどプロの演奏会に客が増えたのはよかったが、主催者を困らせたのは、マナーを知らない新参者がトラブルを起こすようになったことで、演奏中も喋ったり、物音がやかましいのがいる一方、これに過剰に反応してケンカになり、係員が飛んでくる…といった事件が何度かあったそうである。
 ずいぶん前の早混だが、ある年の地方公演で最前列に陣取っている母子連れがやかましく、挙げ句の果てに退屈したのか子供が舞台に上がってきて、たまりかねた八尋先生が演奏を途中で止めて子供を抱きかかえて客席に戻し、叱り付けた…という話が伝わっている(録音も残っているが、さすがにこんなものは出せない)。
 サントリーホールなど訓練を受けたフロア・アテンダントが常駐しているところだと、騒ぎを起こす者はもとよりカメラ小僧や「飲食犯」まで事を荒立てずに処理してしまうが、予算の少ない公営の施設だとその種の対応が甘くて、結果、不愉快な思いをさせられることも少なくない。
 演奏中に私語を交わす手合いというのは、クラシック・ファンが故意にやる確信犯は滅多にいなくて(よほど演奏がひどい場合は別)、大半は、この種の催し物は初めてという素人が危ない。他人に迷惑をかける気はなくても、スポーツ観戦や歌謡ショーあたりと同列に考えているらしく、叱られなくても周囲の視線に気がついて次第に大人しくなる。プロのリサイタルや定期演奏会、あと早混の定演など学生の音楽サークルには出没しないが、社会人、それも出演者に中高年の多いアマチュアの団体がからむコンサートは注意報や警報ものである。つまり、家族や友人など親しい相手を厳選してチケットを配る若手とは異なり、金に糸目を付けない「旦那芸」と化したおじさん・おばさんたちになると隣近所はもちろん取引先や飲み屋の知り合いとか、手当たり次第にばらまく傾向があるからで、その分、クラシック音楽も演奏会のマナーも知らない素人が紛れ込む危険性が高まるわけである。
 逆に、学生の音楽サークルが主催する演奏会によく出没する「迷惑お化け」は、一にOB(OG)、二に「(チケット交換で入ってくる)よその学生」だろう。
 稲門会の役員をやる前の話だが、人見の2階席で早混の開演を待っていたら、前の方で「同業者」の学生らしい数人がやかましくて、やれうちの方が早混より上手だの、格は上だのと生意気なことを言ってる。演奏が始まってもべらべらやってるなら貴様ら学生証を見せろと叱り付けてやろうかと考えているうちに静かになった。最近も、休憩中に稲門会の受付で見ていて面妖なのは、前半だけ見てアンケートを出して足早に会場を去る若い連中がいることだ。現役に聞いてみると、昔と違って今のチケット交換というのは、よそから受け取った入場券を部室に並べといて各々が面白そうなところへ自由に聴きに行く、人気がないところは残ったまま…というのではない由。交換したら、お互い何人ずつ行きますという約束ないし暗黙の了解があって、余れば下級生などにノルマを割り当てて、確かに来ましたよとアンケートに所属団体の名前を書いて帰るんだそうだ。客の入りが悪ければ公共の施設でも翌年から利用を断られてしまうこともあるから、観客動員力を維持するための互助会みたいな仕組みなのだろうが、興味や関心もないのに嫌々聴きに行ったり来たりするなら、モラルは低下するものだ(上述の旦那が配るチケットと似ている)。
 一方、OBやOGが現役の演奏会にお出ましになると、身内意識というか、自分の家みたいな感覚が悪い方向に向かって、よそでは出来ないような傍若無人な振る舞いに至ることもある。筆者が現役の頃、会場が混雑しているのに憤慨し、OBに招待席も用意できないのかと受付で怒鳴り散らしたアホな卒団生がいたそうだ。そこまでエスカレートしなくても、客席で周囲の目を気にせずに「俺たちの方がうまかった」なんて偉ぶった感想を並べている人々は意外とおいでのようだ。終演後に酒席で何を抜かそうと勝手だが、出演者の家族や友人はもちろん、他の卒団生も多数来ていて、誰が何を聞いているかも分からない場所で、関係者に不愉快な思いを抱かせるような言動は慎むべきだろう。(「自分たちが一番うまかった」と言い放つOB/OGの自慢話は真に受けないのが賢明である。大体、自分たちが入団するよりも前の早混はもちろん、卒団したあとの早混までこまめに聴き続けている者などほとんどいないはずである。自分たちより優れた演奏があっても、それを知らないか、曲の好き嫌いや演奏スタイルの違いから「他の早混」の良さを認めようとしないだけの話なのだ。自画自賛ではなく、見知らぬ世代からも評価され続けている演奏や録音こそ本物の名演だろう。)

2010年7月23日金曜日

追悼演奏

 ここで取り上げる「追悼演奏」は、所謂「追悼演奏会」とは別のものである。
 追悼演奏を行うのにはいくつか種類があって、大規模な災害や要人の逝去など、主催者とは直接関係のない不幸な出来事であっても社会的に大きな衝撃を与えた凶事に対して演奏会の冒頭にその旨を観客に伝え、亡くなった人(々)への追悼の意を表してプログラムとは別に演奏を行うのが一つの儀礼として定着している。
 卑近な例では、1995年1月に阪神・淡路大震災が起こったときには、東京でも2月頃に開かれたクラシックその他の演奏会では犠牲者に哀悼の意を表するとして、追悼演奏が行われていた。特別な事情がある場合に、出演者にとっても観客にとっても感情として知らん顔をするのが憚られるものがあり、娯楽の場であっても気持ちの整理をする意味もあるのだろう。アナウンスないし出演者が口頭により追悼演奏を行うことを伝え、演奏後に黙祷を行うので、拍手は控えて欲しいと一言添える。これをうけて観客も拍手をしないのがマナーである。
 主催者側、特に出演者の希望で行われるのは、関係者、たとえば指揮者やその団体と縁の深い音楽家が亡くなった直後の演奏会などで追悼演奏のステージを設けることがある。かつてウィーン芸術週間の最中にソヴィエト・ロシアの作曲家ドミトリイ・ショスタコーヴィチの訃報が伝えられたときには、作曲者に演奏を絶賛されて親交の深かったレナード・バーンスタインがウィーン・フィルを指揮して交響曲第5番の第3楽章を演奏した。取り上げる作品は必ずしもレクイエムといった葬送のための楽曲でなければいけないといった習慣上の制約は特にないようである(むしろ、イデオロギーや宗教・宗派の違いを越えた追悼を希望する意味での配慮もあるかもしれない)。
 早混でも以前に団員が交通事故で亡くなったときには舞台袖に遺影を飾ったり、プログラムにその旨の記載をするなど、演奏という形に限らず、しかるべき措置を執り行ったことがある。縁起でもない…なんて叱られそうだが、普段と違う出来事には何をするのか知らなかったばかりに恥をかいたり関係者に嫌な思いをさせてしまうよりも、「有職故実」をしっかりと書いたり伝えたりする方に意味があるのではないだろうか。
 2003年5月に同志社学生混声合唱団を長く指導していた榎本利彦先生が亡くなられて、翌月東京で交歓演奏会が開かれた際、東混の同僚として親しかった八尋和美先生は早混のステージでJ.S.バッハのモテットを指揮される前に榎本先生の逝去を伝え、追悼演奏としたい旨のスピーチをされたことがあった。1970年代から1990年代にかけて早稲田・同志社のジョイント・コンサートではお馴染みの方だったから10年以上前に退任されていたとはいえ、東京のお客さんにも追悼の趣旨は理解されたことと思う。ただし、少し残念に思ったのは、同志社の現役からは何のアクションもなかったことで(もちろん7月にはOB・OG会による追悼行事が京都で開かれている)、時間的な制約もあり追悼演奏どころか何をどうしてよいものか頭もまわらなかったのだろうが、ロビーに告知の文面を張り出しておくだけでもできなかったものか。現役生にそこまで期待するのは無理なのかもしれないが、「卒団生の皆様、ぜひ演奏会にお越し下さい」という言葉に気持ちがこもっているかどうかは、こういったemergencyで試されるものである。

2010年6月10日木曜日

早稲田大学校歌の正しい歌い方・その3

 1907年に作詞・作曲された時の3番の歌詞は「あれ見よしこの…」だったのが、なぜか大正期になると「あれ見よしこの…」に変わってしまった話については、いずれ稿を改め自説も交えて取り上げてみるとして、ここでは元々は「あしこ」と作詞されていたのが今では「かしこ」で通っているけれども、「あしこ」も間違いではないと記すにとどめる。

 公式に認められている校歌の原典は2種あって、一つは作曲者の東儀鉄笛自筆譜と前坂重太郎校訂による早稲田マーチであるという話は前にしたが、現在、大学で配布されている「早稲田大学歌集」はどちらによるものなのか?となると、実は両者の折衷型で、歌集にはちゃんとした解説や指示が書かれていないため、戸惑う新入生も多いのではないかと思う。1番「久遠の理想」2番「理想の影は」3番「空もとどろに」の楽譜と歌詞の譜割は歌集では次のようになっている。


 2番の「理想」が現在では歌われていない形なのに加えて、2分音符にカナ2つという明治・大正期の歌に見られる曖昧な分け方をしているのに、鉄笛自筆譜の付点4分+8分の楽譜を貼り付けているのだが、これだとどこをどう歌えばよいのか、かえって分かりにくい。それぞれの楽譜を比較するとこうなる。上が自筆譜、下が早稲田マーチである。

 つまり、音符は早稲田マーチの楽譜を基本として部分的に鉄笛自筆譜で補っている一方、歌詞は1番が早稲田マーチ、2番と3番は鉄笛オリジナルの譜割を合体させている。編者は両者の歌いやすいところを重ねる意図でこうやったのだろうけれども、1番の早稲田マーチでは「ん」をどこに持って行けばいいのか判然としないし、2番では折角前坂重太郎が歌いやすく手直しした「りそう」の歌いやすさが元の不自然な譜割に戻ってしまっている。3番は早稲田マーチでは行き場のなかった「も」の扱いを鉄笛の楽譜をあてることで分かりやすく処理しているので、これは評価して良いだろう。まとめてみると、1・3番は鉄笛オリジナルの譜割の方が分かりやすく、歌いやすいし、2番は早稲田マーチの方が自然である。

 下記の楽譜は1つの提案。「2番は下の音符で歌うこと」とか注を入れたらよいのではないかと思う。

2010年6月9日水曜日

早稲田大学校歌の正しい歌い方・その2

 校歌研究会の会員だったおかげで、創立125周年の2007年秋には、資料展のパネル展示の原稿を書かせて頂いたり、楽しい思いをずいぶんさせてもらった。その中に、学内誌の原稿チェックの依頼があって、丹念にチェックしたのはよかったのだが、自分のところに回ってこなかった部分で2番の歌詞に触れた下りで「一つに渦巻く大国の…」と出てしまって、担当の方も恐縮しておいでのようだった。日露戦争に勝った後とはいえ、校歌が作詞された1907年は「東亜の新秩序」だの「大東亜共栄圏」などという忌まわしい発想は唱えられていなかった時代で、校歌の「だいとうこくの大なる使命」は「大島国」、つまり日本列島と周辺の島嶼のことで、特に侵略主義的な思想を鼓吹するものではない(変なナショナリズムにかぶれた今どきの学生だと却って勘違いしそうで困るのだが…)。校歌研究会では大隈侯晩年の主張であった「東西文明の調和」に焦点があてられ、久しく関心がもたれなかった2番の歌詞の重要性について新たな話題を提供したが、これについてはいずれ別の機会で触れてみたい。

 本題に入るが、歌い方で問題となるのは、1番と同じく「やがても久遠の理想の影は」である。作曲者・東儀鉄笛が1907年に記した譜面では、下のようになる。


 この「りーそうの」という譜割は、現在では応援部で継承されて残っているものの、一般には次の形になっている。これは、1915(大正4)年に前坂重太郎が作曲者自身の指導のもと、校歌の伴奏と和声を含む編曲譜(所謂「早稲田マーチ」)をつくった際に訂正したものとされる。


 これは「その1」でも触れたように、3文字目を伸ばすという邦楽の伝統的な歌唱法に即したもので、「りーそお」ではなくて「り・そ・おー」の方が歌いやすいから、適切な改変と言える(どうせ変えるなら、1番の久遠も大正4年に一緒に直しておいてくれたらよかったのに…)。

 2007年の125周年記念演奏会で早混、グリー、フリューゲル、早合の連合軍が交響楽団と一緒に校歌を披露したときも怪しかったが、最近でも校友会の寄付講座などで新入生が校歌を歌っているのを聴いていてぎょっとさせられるのは、1番の久遠の歌い方を入学式の歌唱指導などで「くーおーんの」とうるさく仕込まれるのが逆に災いして、きちんと教えてもらっていない2番の久遠をこんなふうに歌ってしまう現役生がけっこういるらしいのである。


 これは、作曲者自筆譜、「早稲田マーチ」改訂譜のいずれとも異なる明らかな間違いである。もともとグリークラブの男声合唱版でも早混の旧旧・旧編曲でも2番は飛ばすから、公式な場で2番をちゃんと歌う機会がない。原調のニ長調により器楽付きの伴奏譜に基づいて1番から3番まで斉唱でも歌えるようにしておいた方が良い。学内各合唱サークル、特に非インカレ系の伝統を誇る3団体の責任は重大である。

2010年6月7日月曜日

早稲田大学校歌の正しい歌い方・その1

 早慶戦の晩など、学生の騒動防止のため歌舞伎町界隈に大学から警戒・指導に出向くのが常だが、「おまえら本当に早稲田の学生なのか?本物なら『都の西北』を1番から3番まで正しく歌ってみろ」とけしかけてみると、ちゃんと歌えた学生に出会ったためしがない…と知人の早大職員がこぼしていた。

 2番・3番の歌詞がうろ覚えなのはもちろんのこと、2番半ばの譜割がいい加減なのがほとんどなのだが、恥ずかしいことに、2007年の早大125周年の記念に第九を演奏したときのアンコールで1~3番を通して斉唱したら、ものの見事に全員で2番の歌い方を間違えていた。どうせ練習もろくろくしなかったのだろう。校歌シンポジウムをやった翌日にこれだから、さすがに腰が抜けた。

 まず1番で「現世を忘れぬ」に続く「久遠の理想」の旋律だが、東儀鉄笛の自筆譜に基づいて1907年の創立25周年記念の行事で配られた楽譜では、次のようになる。

 学校が出している「早稲田大学歌集」には正しい譜面が載っているのに、講談社「日本の唱歌(下)」や野ばら社などから出ている楽譜だと次のようになっていて、これは公式の典拠に基づくものではない明らかな誤例だが、誰も訂正を申し入れていないらしく、未だに出回っている。
 「ミファソーファミ…」と歌うべきところを、「ファ」を抜かしてしまうのには訳があって、明治期の唱歌や軍歌の類は、ドレミファソラシドを全部使ったメロディーである7音階ではなく、江戸期以来の民謡や俗謡に多く見られる5音階、すなわち長調ならファとシの4・7番目を省いた「ヨナ抜き音階」と呼ばれる音階で作曲されているものが多かったため、聞き覚えと口伝えで歌われて行くうちにファ抜きで歌っていたのがそのまま採譜されたらしいのである。入学式の歌唱指導では正確に歌わせているので、現在の学生はこの種の誤りをしている者はいないみたいだが、念のため。

 下の歌い方は、恐らく大正期から1950年代の中頃まで外部ではもちろん早大関係者の間でも広く歌われていたもので、間違いというよりも「都の西北」が俗謡として「変形」したヴァリエーションと言ったほうが適切かもしれない。
 これは、金田一春彦が「日本語」(岩波新書)や「日本の唱歌(下)」(講談社文庫)でも指摘しており、次のように解説している。

これは作曲者の東儀が、「オン」は一息で一音なのだから下の譜のようにしてはまずいと思ったのであろうが、日本語では「オ」と「ン」がそれぞれ一音で、相馬も「クオン」全体を三音と数えて作詞したのだから下の譜の方が日本語の性格には叶っているというべきである。(日本の唱歌(下)48頁)
 少し補足すると、おそらく東儀鉄笛が「まずい」と判断したのは、西洋音楽では「ン」は母音ではない、分かりやすく言い換えると「ン」で伸ばす歌はないからである。これに対して、日本の伝統音楽では「ん」で引っ張る歌は特殊ではない(学術的には、「『ん』を準母音として扱う」という)。加えて、日本の歌には3文字目で伸ばすという特徴があるため、口承で広まった過程で自然に変わってしまったらしい。楽譜や音源によって歌唱指導をしていたならば、こういう歌い間違いは発生しなかったはずである。3番の歌詞で「あれみよあしこの」が「あれみよかしこの」と変わってしまったのも、この口承が重要な原因というか役割を果たしているのだ。(この記述は、藍川由美「これでいいのか、にっぽんのうた」(文春新書)180頁の瀧廉太郎「花」に関する指摘から重要な示唆を得た)
 
 上記の「くおん~の」という歌い方は、1950年代の末に東儀鉄笛の自筆の楽譜が「発見された」(*)のを機に、学内で本来の正しい楽譜に基づいて歌おうという動きが高まり、現在では、年配の校友でもない限り、「ん」を伸ばして歌われることはなくなった。
 
*戦前も東儀家に保管されていることは知られていたのだが、その後のどさくさで忘れられていたようである。大学史資料センターの学芸員の方によると、自筆譜は昭和初期に大学から戻ってきたときの封筒にそのまま入れられていて、切手と消印が押されていた由。

2010年6月6日日曜日

編曲の文化

 昨年、早稲田大学マンドリン楽部のOB/OG会の会誌に寄稿を依頼されて、考えた末に「マンクラさんの特徴は編曲の文化が伸張していることだ」と分かったようなことを書いてお茶を濁してもらったのだが、早混が取り上げてきた音楽の変遷をたどると、編曲がかなりメジャーだった時代とそうでない時期というのがはっきり分かれているようだ。
 旧8号館の部室に残されていたオープン・リールの音源の中に1960年代の六連の模様を収めたものがあって、玉川大学とか今とは異なる加盟団体の演奏も聴けるのだが、当時は邦人作曲家によるオリジナルの混声合唱曲(特にコンサート・ピースとしての合唱組曲)がまだ萌芽期にあり(東混の委嘱・初演作品では佐藤眞「旅」とか三善晃「嫁ぐ娘に」など、のちの時代にも広く受け入れられる作品は出つつあったが)、大学の混声合唱団が取り上げるのはまだオリジナルの作品はきわめて少なかったようだ。
 例えば、1958年の定期演奏会のアンコールではシャブリエの交響詩「スペイン」をそっくり混声とピアノにしたてた編曲が歌われたり、60年代後半でも玉川の六連個別曲ではヨハン・シュトラウスのポルカが混声に化けたりしている。「流浪の民」のようにオリジナルの作品をそのまま訳詞にして取り上げているなどクラシックの作品の流用や移植以外には、フォスターその他の世俗曲や外国の民謡などの編曲が一般的で、訳詞の不自然さを我慢しながらぎこちない歌い方をしているのが興味深い。
 これが1970年代になると、高田三郎、大中恩、三善晃、團伊玖磨など邦人作曲家や作品において選択肢が広がってきて、旧来の編曲物はすっかり影を潜めるようになる。このあたり、早混のレパートリーが大きく変容する時期と重なっていて、我々の団の歩みを知る上で重要なターニング・ポイントになる時期と言ってもよい(いずれ、詳しく書いてみたいと思う)。
 オリジナルの楽曲を優先して、編曲に重きを置かないのはクラシックを専ら取り上げる早混や交響楽団では顕著なようで、これに対してジャズなどの軽音楽系の世界ではアレンジ自体が一つの重要な要素を占めている。SATBなど編成が固定しているわけじゃなくて、実際に確保できるメンバーの楽器によってその都度、編曲を用意しなければ演奏が成り立たないというジャンル自体の内在的な要因があるわけだ。
 グリークラブの場合、編曲かオリジナルかという分け方においては、かなり柔軟な意識があるようで、マーラー「さすらう若人の歌」を男声合唱に仕上げたり、様々なジャンルから男声合唱の魅力を生かすようなアレンジを試行錯誤する一方で、清水脩「月光とピエロ」や多田武彦の一連の作品など男声合唱を想定して創作された楽曲にも強みを発揮している。
 早混の場合、第2次八尋時代以降はレギュラーの演奏会で編曲物をメインにすえるどころか、ほとんどオリジナルのもので固めるのが通例となっていたが、この数年、六連の個別曲で若林千春氏を始めとして、もともと合唱とは縁の無かったジャンルからの編曲を積極的に取り上げるようになったのは、一つの大きな変化と言ってよいだろう。昨年の「だんご三兄弟」みたいに、オリジナルの色彩を一切消し去って別の風景を描き出そうとする若林氏のスタンスには必ずしも賛同しかねる点もあるのだが、オリジナルの合唱曲だけでは知ることのない異次元の音楽に理解を示そうとする姿勢は、早混の音楽づくりに良い刺激となっているのではないかと思う。「早混の伝統が汚れる」とかケチな言い方はしないほうがよかろう。

2010年6月5日土曜日

往時は名物だった「早稲田の第九」

 2007年10月の創立125周年記念行事の一環として、記念会堂を会場におよそ12年ぶりに交響楽団と学内の合唱サークルが合同でベートーベンの交響曲第9番が演奏されたのも記憶に新しいところだが、1957年から1995年までの約40年間、早稲田では1年おきにクラシック系の音楽サークルが第九交響曲を披露するのが恒例の行事となっていた。
 1957年に今の記念会堂が竣工した記念として、当時の学生部長だった滝口宏教授の肝いりで始められたのだが、当時は女声の確保に苦労し、学内の合唱サークルはもとより女子学生に個人的にあたったほか、玉川大学の応援を得たのは各種資料に詳しく出ている話である。当日の進行表が残っていて、エキストラの玉川がスタンバイする時刻の他、「N響入り」という記述があって、おそらく特殊楽器など学生では手の足りなかったパートの補強として来てもらっていたのではないかと推察される。
 この手の話は大学の資料やサークルの会誌では触れられないところで、ついでにもう一つ紹介しておくと、このときの演奏が日本史上初めての学生による第九だという触れ込みになっているのだが、筆者が調べたところでは、1949(昭和24)年に仙台で東北大学の音楽部が金子登の指揮で演奏しており、これは第九の「東北初演」だったということになっている。おそらく合唱(特に女声)に関しては職員のコーラスや外部の団体の応援を得て挙行したのであろうから、学生の第九の第一号は早稲田と名乗って差し支えはないと思われるが、若干微妙なところでもある。
 話を戻して、1957年の早稲田で最初の第九は、日本楽器(ヤマハ)が試験的にステレオ録音をとっていて、あとで銀座の本店で披露したという話を複数の関係者から聞いている(ラジオのニュースでも音声が紹介されたそうである)。残念ながらテープは残っていないらしい。筆者の知るところでは、フロイデハルモニー(早稲田の第九)で最古の録音は1962年に東京文化会館で当時、「N響事件」の渦中にあった小澤征爾が指揮したときのもので、マスターは未だに行方不明だが、関係者に配布された孫コピーのテープを保管していた早混の先輩がいて、デジタルに複写したものを大学史資料センターに寄贈した。学芸員の方からは「早稲田から記念で出せませんかね」と言われたことがあるのだが、ソリストが複数のレコード会社の専属になっているほか、小澤征爾は、自分の若い(つまり、本人から見て「未熟な」)時期の演奏の復刻にはNGを出しているそうなので、残念ながら公にはできないだろう。薫陶を受けたミュンシュやバーンスタインを彷彿させる、軽やかな曲の進め方がいかにも小澤らしい演奏だった。

2010年6月4日金曜日

若林千春版の編曲をめぐって

 現役が定期演奏会で歌っている校歌の新編曲がつくられたのは1994年のことで、「変えるにあたって何か理由か経緯でもあったのか?」と年長の先輩から聞かれることがあるのだが、この年は創立○○周年とかキリのよい数字でもなかったし、特別な祝い事も思い当たらない。要するに、八尋先生が「校歌の編曲を新しいのにしたい」と言い出したから、現役の方も深い考えもなく変えてしまっただけ、というのが真相のようである。
 この頃はOB/OG会はもちろんのこと、卒団生向けの本格的な活動や行事なんてなかったから、八尋先生や現役にしてみれば校歌の編曲は自分たちのためのものでしかなかったのだろう。前の編曲に永年慣れ親しんでいたOBやOGがどう受け止めるかなんて、思い至る者もいなかったらしい(新しい編曲を先輩たちにも歌ってもらえばよいなんて言うのもいるかもしれぬが、未だに早混OB・OG合唱団は若林版を歌う気配さえ見せぬ<笑>)。OB(OG)の現役に対する影響力が強すぎて、箸の上げ下げまで口出しされているサークルだったら、まずこんなことは起きなかったのだが(グリークラブでは校歌の速さを変えただけでOBが血相変えて怒鳴り込んでくるそうである)、旧世代の先輩たちは曲想の余りの変わりように激怒した由。
 1964年に旧旧バージョンの「戸田版」を廃止して「長谷川版」に変えたときも部室に怒鳴り込んだ先輩がいて(本人から直に聞いた)、今回も八尋先生に「何で変えてしまったんですか!」と詰め寄ったそうだが、先生は黙っていたそうな。ご本人が仰らなくとも大体の察しはつく話で、第3代専任指揮者の長谷川博先生(1961~5)の時代に校歌の編曲が変わったのも先生直々のお達しによるものだった。前の「戸田版」は学生が手がけたものだから和音の処理などに誤りがあるから…といった解説をする向きもあるが、これは戸田さんに失礼な話で、戸田さんが和声学を習っていて当時は東京芸大の先生だった作曲家の石桁眞禮生(1916~96)にチェックしてもらって最終的なOKをもらったので、音楽理論上間違っているわけじゃないそうだ。
 編曲の和声なんかを自分好みにこっそりいじりたがるのは技術委員でも同じらしく、早混50年史の取材で発覚したのだが、「紺碧の空」と「早稲田の栄光」の混声版の編曲は、10年ちょっとの間に、何者かが(歴代の学生指揮者あたりに犯人がいるらしい)印刷のたびに極秘に手を加えていて、とうとう編曲者の川崎祥悦先生から「無断で変えられている」と抗議される羽目になった(1979年のことで、早混稲門会が校友音楽祭で使う楽譜は、このときの訂正版を採用したのだが「自分たちの歌っていたのと音が違う」と言われて、毎年説明するのが億劫でならぬ)。
 話を戻すと、八尋先生が校歌の編曲を変えさせたのは、今や早混の隅々まで八尋色が行き渡っているのに、玄関に鎮座している立派な置物が大昔の前任者の作というのが永年、お気に召さなかったのだろう。言うならば「のどに引っかかった最後の骨」に手を出したわけだが、さすがに30年も使い慣れていた長谷川版を即座に廃止できなかったのは誤算だったかもしれない。六連の定期演奏会で歌うときは時間の制約もあって長谷川版だし、レセプションの始まりや神宮で歌うときも清楚な響きの若林版じゃ威勢が上がらないと敬遠されているようだ。
 若林版にアレルギーを隠さないのは石田・長谷川時代以前の旧世代の先輩方に多いが、早混OB・OG合唱団の人でも「実は、個人的には好きです」という隠れキリシタンはいる。第2次八尋時代(1975~)でも20年近く長谷川版だったから、賛否両論あるのは当然として、ルネサンスやバロックの宗教音楽にシンパシーのある人には若林版は意外と人気がある(筆者の同期にも「現役のときにこんな校歌を歌いたかった」と言ってる者がいる)。
 外部の反応はもっと面白くて、うちの定期演奏会に招待されたグリークラブの人が激怒して、とある酒席で「混声には校歌を歌わせるな」と息巻いて周囲の人が止めに入ったことがある(笑)。一方で、校歌に関しては本家本元と言って過言ではない早大応援部で吹奏楽団の指導をしている人や交響楽団の顧問の方からは「混声合唱の特色を生かした良い編曲だ」とお褒めの言葉を頂いた。「オーケストラみたいでイヤだ」という一部の早混人の反応と対にとらえてみると興味深い。
 要するに、神宮球場に校旗はためくシーンとセットで「都の西北」をイメージする向きには若林版は軟弱過ぎて許し難いのだが、混声合唱の一つの表現形式として校歌を取り上げ、デモンストレーションしていると見る向きからは、素材としてのコーラスを純粋に鑑賞され、評価されているのだと思う。
 「こんなもの『都の西北』じゃない」と他所から文句でも言われたら、若林版の編曲はあくまでも「演奏会用」のものです、八尋和美先生の指導のもとルネサンスやバロック期の宗教音楽を長年にわたり取り上げてきた早稲田大学混声合唱団とは、こんな感じの合唱団ですよ、と自己紹介するためのツールなんですから、誤解なきように願います、と答えるのがいいんじゃないかと思う。現役の子と「若林版」が話題になるときは、こんなアドバイスをしている。

2010年6月2日水曜日

新入生演奏会の始まり

 現役の方では新入生の顔ぶれも揃ってきて、新入生練習も熱気を帯びている時期だろう。早混の諸制度の中で、おそらく最も成功したのが新入生演奏会であることは早混史の研究者の間でも意見が一致しているところだが(笑)、1963年に新入生演奏会(当時は「新入部員の演奏を聴く会」)が初めて開かれたときは、それほど用意周到な狙いでやったわけではなかった…という話を現役の役員にすると意外な顔をするから面白い。
 1956年に第1回の定期演奏会が大隈講堂で開かれたのは6月23日のことで、入学したばかりの部員も猛特訓してステージに乗せてしまったのは有名な話だが、この年に限らず人材不足の時代は新人だろうが何だろうがさっさと上級生の練習に組み入れて、新入生歓迎会で新入生が新入生を歓迎するような状況は1950年代の末まで続いた。
 しかし、1960年代になると折からの「合唱ブーム」で新部員の数が年ごとに倍増すると面倒な事態になってきた。始まって間もない同志社とのジョイントや六連は上級生の行事だったが(当時の六連は各団体間での申し合わせが厳しく、個別ステージの制限時間はもちろんのこと、新人は参加させないというルールも徹底していた。練習もろくろくしないで本番に出てしまうようなふざけた団体が登場するのは1970年代以降である)、入ったばかりの部員を練習だけで遊ばせておくわけにも行かないので、新人の「お披露目」「初舞台」は合唱連盟が主催する春の合唱祭だった(秋は合唱コンクール)。
 ところが、当時の合唱祭の会場は今みたいに本格的なホールが使われるわけじゃなくて、専門学校の講堂など、かなりステージの狭いところでやっていた。だから、上級生と新入生が一緒に参加すると客席や舞台袖にあふれ出すほどの人数になりつつあって、合唱祭も新入生は参加させられない、どうしようと当時の役員会が悩んだ末に、そんなら前期の練習とお披露目は新人だけ別メニューにしてみよう、と考えたのが今の新入生演奏会の始まりである。
 記録によると、1963年に初めてこれをやったときは一度きりの試みということで役員会でも翌年はやらないつもりだったらしいが、新人の育成や学年での人間関係の構築、上級生の活動への円滑な移行、等々の利点が早くも認識されるようになり、現在に至るまで50年近くにわたって団の公式な活動として優れた役割を果たすこととなったのは周知の通りである。

2010年5月31日月曜日

花束の失敗

 昔、音楽之友社から出ていた「合唱事典」には、演奏会の段取りやマナーについて論じられた項目があって、演奏の終了後に指揮者などに花束を贈呈するのは好ましくないからやめるべきである、云々と書かれていた。
 お金を払って聴きに来て下さるお客様の前で「自画自賛」みたいな真似をするのはみっとみない、という考え方なのだろうが、50年以上前の定期演奏会の写真を見ると、大隈講堂の前で勢揃いしている真ん中の指揮者は花束を抱えているし(透明なラップではなく紙でくるんでいるのが時代を感じさせる)、別の年のステージ写真には泣き出して顔をくしゃくしゃにしている男子部員(昔は「団員」ではなく「部員」と呼んでいた)の前で花束を持って深々と頭を下げている石田徹先生(第2代専任指揮者・1958~60)の姿があるから、早混ではずっと昔から花束の贈呈はやっていたようだ。
 一部の音楽系サークルでは休憩時間中に「祝電のご披露」をするところがあって、部外者にはどうでもよい儀式なのだが、慣例としてお互いに続けていると付き合いもあるからおいそれとはやめられないものなのだろう。1960年代初頭の早混や混声六連の録音によると、当時は友好団体の名前を読み上げながらステージ上で花束を渡していて、5分ぐらい延々とやっている。さすがに見ている方もうんざりしたのか、すぐに廃れた。
 人数が多くなってくると、ちゃんとリハーサルをしていても渡す相手を間違えたり、そそっかしい先生が別の人のをさっさと受け取ってしまったり…一斉に手渡しできずに係の女の子(なぜか女性と相場は決まっているが、女の先生にはイケメンの男子をあてがっても喜ばれるだろうに)がうろたえる様子は器楽・声楽を問わず方々で目にする風景である。花束贈呈の対象者は、指揮者、伴奏者、ソリスト、コンサートマスター、それに(本番は振らなくても)学生指揮者あたりは誰でも思い付くのだが、演奏会でふだんと違うことをやるときは予想も付かない危険がつきものである。早混の創立30周年記念演奏会で「クレーの絵本・第1集」を委嘱初演したときは、演奏に立ち会った作曲者の三善晃先生に花束を忘れるという重大なマナー違反をやってしまったことがあった。特に初演に際しては作曲者や作詞者がステージに上がり演奏者と握手をしたり聴衆に挨拶するという習慣があるのを当時は誰も知らなかったらしい。
 しばらく前の話になるが、東京六大学混声合唱連盟の第50回記念演奏会では、大詰めの合同演奏で史上初めて児童合唱と共演したのだが、指揮者とピアニスト、各団体の学生指揮者に花束を渡したのに、指揮者の隣で一緒に挨拶していた児童合唱の指導者の先生を立たせたまま手ぶらで帰してしまうという失態を演じた。プログラムにも名前を載せていたのに、おそらく事前の確認や打ち合わせが不十分だったのだろう。他人任せにして「耳なし芳一」の経文を書き忘れてしまった典型的なパターンなのだろうが、理由が何であれ満座の席で恥をかかせてしまっては、あとでいくら謝っても取り返しの付かないことになる。花束の予備がなければ、ステージマネージャーの咄嗟の判断で、先生方を優先させて学生の分はなしにするとか、係の子に耳打ちさせて学生指揮者をいったん舞台袖に引っ込めてから花束を渡す係に仕立ててしまうか、直後に先生から回収してあらためて学生に渡す、などなど手違いを露見させない方法はある。ロビーに人をやって団員あての花束から立派そうなやつを借りてくるといった「緊急避難」も覚えていた方がよい。かつて早混の地方公演で本番直前になって花束不足が発覚したときは、先輩に知恵者がいて、数本ずつ引っこ抜いてもう一人分こしらえて事なきを得たそうである。

昔の早稲田の恋愛

 5月30日に練馬文化センターで早稲田大学マンドリン楽部の定期演奏会があって、秋の校友音楽祭ではうちが歌う三善晃「クレーの絵本」で伴奏のギター奏者を紹介して頂くことになり、挨拶かたがた先様のOB/OG会の打ち上げに顔を出した。
 同席したご年配のOGの人は早混にも友人がいて、草創期のフロイデハルモニー(1957年から1995年まで、ほぼ2年に一度、学内の交響楽団と合唱団が合同で第九交響曲を演奏するならわしがあった)のコーラスに出たことがあるとのこと。のちには、各合唱団がメンバーを出して、女声で足らないところはグリークラブあたりと付き合いのある女子大から賛助出演してもらっていたが、当初は合唱サークルの構成員でなくても早稲女の個人参加を募っていた時期があったことは知っていたものの、実際に本人から話を聞けたのは初めてだった。
 早稲田の女子学生が全体の1割ほどになるのが1960年代のことで、この方の在籍されていたころの早稲田はどの学部でも女子は少なく、自然と女の子同士は仲良くなるものだったようだが、なんでも友だちの一人が1学年上の男子学生で混声の人を(当時は、早混ではなく学内では「混声」と呼ばれていた)好きになったけど、思いを打ち明けられぬまま、卒業式の季節になってしまった。学部の何かの行事で「お別れ会」みたいなのが開かれて先輩たちに代わる代わる挨拶をすることになり、これであの人ともお別れなんだ…向き合ったら何も言えなくて目に涙を浮かべて手を握りしめたまま見つめるばかり…。そうしたら、卒業式の前の日に電話がかかってきて…その後、二人は結婚したんですのよ。
 昔は卒論や就職活動の時期に中途で退部する人も多かったので名簿に載っているかどうか分からないし、まして他の合唱サークルかもしれないし、誰かと尋ねるのもヤボな気がしたので聞くだけにしておいた。今の現役が聞いたら「さっさと告ればいいのに」と腹を抱えて笑い出しそうだが、半世紀も前の早稲田の男女は慎ましくも奥ゆかしい恋愛をしていたものである。

2010年5月29日土曜日

敗戦直後の合唱サークル成立の形式―女声か混声か

 第二次世界大戦以前の日本の大学は、「女子大学」と名乗っていない限りは大半が「男子大学」で共学を実施していたのは一部の私立校だけだった。従って、大学で混声合唱団の活動をやっていたのは、教育活動の一環としてやっていた玉川学園やチャペルの合唱隊とその延長線上で宗教音楽を演奏する機会のあった成城学園、関西に目を転じると、付属の女子専門学校と合同で混声を臨時で組織していた同志社(現在のCCDとは直接の関係はない)や近隣の女学校からメンバーを集めて混声合唱団として活動していた京都大学など、わずかな例にとどまっていた。
 敗戦とともに占領軍の政策の重要な柱の一つとして教育改革が実施され、4年制の大学でも原則として男女共学が導入されるようになるのは1949年からである。男ばかりでやっていた各大学の音楽サークルでも新たに入ってきた女子にどう対応するか、様々なパターンが見られた。
 一つは、男声合唱団を改組して混声合唱団として再出発する例があった。混声六連で早混とも付き合いの長い青山学院大学グリーン・ハーモニー合唱団がそうで、もともと同団は大正時代に創設された伝統ある男声合唱団だった。ミッション系の大学の場合、女子学生の浸透度は他よりも早かったようだし、もともと「男子大学」とは別に女子教育を行う系列の学校をかかえていたところは、戦後も短期大学や女子大学として女子の受け皿は存続しているから、4年制の学部生に系列の女子校から人材を追加して混声合唱団をやるのは比較的容易だったようである。
 一方、もともと男声合唱団として活動していたサークルの中には、戦後になって女子学生がやってきて自分たちも入れて欲しいと要求されても、人数比に難があるとか、男社会の伝統を崩すのに抵抗があったとか、様々な理由から混声への改組には踏み切れないところも多かったらしい。従来の男声合唱団に入れるわけにも行かず、サークル内に「女子部」の形で受け入れて、対外的には女声合唱団として活動させたのが慶應義塾大学ワグネルソサイエティや立教大学グリークラブで、現在でも立派な活動を続けている。
 もっとも、同じ看板(ブランド)で女子大学や短期大学をかかえていない学校では、女子の供給をめぐって少ないパイを奪い合うような状態にならざるを得ない。慶應や立教のように女声合唱団がしっかりした組織力を永年育んできた学校では、逆に混声合唱団で有力な団体が台頭することが遅れる結果となったようである。逆に、女声が学内の他の混声に押されて衰退し、活動を続けられなくなったのが東北大学や早稲田大学であった。東北大学男声合唱団の別働隊・通称「ひよこ」は1970年代に活動を停止したが、早稲田大学グリークラブの庇護下で活動していた早稲田大学女声合唱団は1963年に休部に追い込まれている。
 早大グリーの場合、1949年のコール・フリューゲル独立事件のあと、団の活動回復策の一つとして事実上の女子部である女声合唱団の育成・指導が行われた。最盛期には30人ほどの陣容をかかえ、グリー部内の行事では混声合唱の試演も行われたことがグリークラブの百年史「輝く太陽」の中に書かれている(ちなみに、同書に掲載された当時のグリー男子の手記には、「当時の混声の女子は大半が外部からの参加だった」とあるが、これは早混と早大合唱団の活動を取り違えた誤解である。当時でも早混の女子は大部分が早稲田大学の学生だった。本文の記述だったら後日の訂正を正式に申し入れるべきところだが、随筆として書かれた箇所なので目くじらを立てるほどのことでもないと思う)。
 早混との絡みで触れておくと、1950年代は新入生の女子の取り合いで早混の新歓ポスターを引っぱがされて、仕返しに殴り合いの喧嘩になった…なんて物騒な武勇伝もあるのだが、50年も前の話で当事者の多くが鬼籍に入ったこともあり、グリークラブのOBと同席する時にも恨みっこなしの笑い話で済んでいる。
 早稲田で女声合唱団が続かなかった理由は、早混の他にも1950年代には早稲田大学合唱団や早稲田大学コール・ポリフォニーなどインカレ系ながら混声をやっていたサークルが既に活動しており、1960年には早稲田大学室内合唱団が設立されるなど、こと混声に関しては選択肢が多くて、女声はその余波をもろに受けたことが女声合唱団が10年ほどの短命に終わった主な原因だろうが、グリークラブの百年史を編集されたご年配のOBの方から伺った話によると「早稲田内部で自前の人材を育成しようとするよりも、よその女子大の合唱団と仲良くする方に熱心になった」のも女声合唱団が早稲田に根付かなかった一因とのこと。
 そんな時代から半世紀たって、伝統を誇る4年制大学の多くは女子学生であふれ、昔とは逆に男声合唱団が立ちゆかなくなって混声に改組したり、更に(東京大学で最近結成されたそうだが)新たに女声合唱団が誕生するといった動きもあるそうである。早稲田でも「都の西北」を女声3部合唱で聴く日も遠くないかもしれない。

2010年5月28日金曜日

早混の誕生

 早混五十年史が刊行されてもしばらくの間、現役の新入生向け案内などには「昭和23年に教育学部音楽研究会として発足」云々の記述が残っていて、これはとんでもない間違いだからと訂正させて、最近はようやくなくなったようである。
 正解を先に書いておくと「早混の始まりについて述べよ」という設問に答案を書くなら、次のような内容にすれば合格点である。

 1948(昭和23)年の春に、旧学制下の早稲田大学高等師範部社会教育科で「音楽」(講師・梁田貞)の授業を受けていた学生たちが「高等師範部混声合唱団」として合唱活動を始めた。
 翌1949(昭和24)年4月、戦後の学制改革に伴って新たに組織された教育学部には「音楽」の学科や授業が設けられなかったので、学生たちは全学規模のサークルとして活動を継続させることとし、「早稲田大学混声合唱団」を名乗った。


 このデータに基づいて今の現役の子たちは「since 1949」と早混は1949年に設立した…と書いているのだが、文字通り早混をつくった当時の先輩方の間では「うちの創立は昭和23年だ」という認識だったのである。要するに「高等師範部混声合唱団」と「早稲田大学混声合唱団」の間に同一性・連続性があったかどうか、という点が問題となるのだが、当時の経緯を知る人たちに直接インタビューしたところによると、高等師範部混声合唱団のメンバーはほぼ全員が引き続いて早稲田大学混声合唱団の活動に関わったそうである。従って、参加資格は高等師範部の人間だけで始めたとはいえ、1948年から早混は活動を開始したという解釈も成り立つわけで、定義としては微妙なところなのだ。

 「教育学部音楽研究会」という名称が早混の実際の活動とは別に一人歩きして、資料の中に紛らわしい形で残ってしまったのにも複雑な事情がある。詳しい経緯は省くが、高等師範部の部内サークルとして発足した実績があったので、新設の教育学部(高等師範部がそのまま改組したわけではない)からも高等師範部の備品だったピアノを使わせてもらったり、のちに教育学部の建物の中に自前の部室を与えられるという便宜が図られた。つまり、教育学部直属のサークルとして学部の庇護下に置かれたのだが、建前として教育学部の学生たちによる活動であるという体裁を表面上はとらざるを得なかった。教育学部当局との間に交わされた書類には「早稲田大学混声合唱団」ではなく「教育学部音楽研究会」の名が記されていた(責任者その他の代表の氏名を記載する場合、教育学部の学生の名前に代えて申請するようなこともしていたようである)。当時のOGによると学校に書類を出して許可やら何やらもらうために「研究会」としていただけで、「そんな名前を名乗っていた覚えがない」とのことであった。
 実際には他の学部の人間も多数出入りしていて、1950年代を通じて少しずつ団員も増えて行き、実力も備えていったのだが、草創期の役員の悩みとして、全学的なサークルでありながら教育学部のサークルとして厚遇されたことで、部室を持たない他の学生サークルから嫉妬され、色々と嫌がらせを受けたり、「女子を根こそぎ取り込んでしまう存在」(実際にはそんなことはないのだが)として目の敵にされていた時期もあったという。
 これが、現在の1号館の最上階に部室が置かれていた「屋根裏部屋」時代の早混で、1960年代の初頭まで続く。その後、教育学部の庇護を離れて旧8号館の地下に居を構える頃には団員数も激増して「第一次黄金時代」を迎えることになるのである。

ブログの開設にあたって

 「久遠のハーモニー 早稲田大学混声合唱団の半世紀」(早混稲門会)が刊行されたのは2002年11月のことだった。準備期間も含めておおよそ10年経たことになる。以来、早稲田大学校歌研究会の活動に携わったことにより、「校歌」誕生の経緯などで新たな資料や情報が明らかになったのはもちろんのこと、早混やその周辺の記述などでも訂正や補足をしておきたい事項が数多く出てくるようになった。
 本来なら、今後のanniversaryを利用して、団史の補遺や各期生の投稿などをまとめた会誌などの発行を通して、情報を追加・提供するのが望ましいところではあるけれども、それには労力はもちろんのこと費用の工面もばかにならない。
 幸いなことに、インターネット上での情報の発信や整理の手立てに関しては、この10年余のあいだにめざましい進歩がみられた。ホームページや電子掲示板が中心だった従来のネットのサービスは大きく様変わりして、ウィキペディアやブログ、ツイッター、YouTube、SNS等々、選ぶのにも戸惑うほどのツールやシステムが溢れている始末である。早混やその歴史を紹介するホームページを12年ほど前に開設したときは、参照して欲しい項目ごとにコマンドを埋め込んでリンクを張ったり…とうんざりするほどの雑用に追われたものだが、今時のブログでは検索などの仕組みも容易になり、せっせと文章や画像その他のデータをアップして行くだけでもそれなりに体裁のととのったデータの蓄積が出来るようになってしまった。
 そろそろ「え~ッ!早混って八尋先生がつくったんじゃないんですか~?」なんて恐ろしく不勉強な現役生が出てきては困るし、ふだんの付き合いで現役の役員相手によもやま話をするときの負担軽減にもなるだろうから、早混稲門会の関係者や現役で早混の昔話に関心のある人向けの情報発信を再開することにした。
 なお、当然のことながら、早混稲門会・幹事とタイトルには入れてあるものの、あくまでも個人的な立場での発言である点をお含み置き頂きたい。