2010年5月31日月曜日

花束の失敗

 昔、音楽之友社から出ていた「合唱事典」には、演奏会の段取りやマナーについて論じられた項目があって、演奏の終了後に指揮者などに花束を贈呈するのは好ましくないからやめるべきである、云々と書かれていた。
 お金を払って聴きに来て下さるお客様の前で「自画自賛」みたいな真似をするのはみっとみない、という考え方なのだろうが、50年以上前の定期演奏会の写真を見ると、大隈講堂の前で勢揃いしている真ん中の指揮者は花束を抱えているし(透明なラップではなく紙でくるんでいるのが時代を感じさせる)、別の年のステージ写真には泣き出して顔をくしゃくしゃにしている男子部員(昔は「団員」ではなく「部員」と呼んでいた)の前で花束を持って深々と頭を下げている石田徹先生(第2代専任指揮者・1958~60)の姿があるから、早混ではずっと昔から花束の贈呈はやっていたようだ。
 一部の音楽系サークルでは休憩時間中に「祝電のご披露」をするところがあって、部外者にはどうでもよい儀式なのだが、慣例としてお互いに続けていると付き合いもあるからおいそれとはやめられないものなのだろう。1960年代初頭の早混や混声六連の録音によると、当時は友好団体の名前を読み上げながらステージ上で花束を渡していて、5分ぐらい延々とやっている。さすがに見ている方もうんざりしたのか、すぐに廃れた。
 人数が多くなってくると、ちゃんとリハーサルをしていても渡す相手を間違えたり、そそっかしい先生が別の人のをさっさと受け取ってしまったり…一斉に手渡しできずに係の女の子(なぜか女性と相場は決まっているが、女の先生にはイケメンの男子をあてがっても喜ばれるだろうに)がうろたえる様子は器楽・声楽を問わず方々で目にする風景である。花束贈呈の対象者は、指揮者、伴奏者、ソリスト、コンサートマスター、それに(本番は振らなくても)学生指揮者あたりは誰でも思い付くのだが、演奏会でふだんと違うことをやるときは予想も付かない危険がつきものである。早混の創立30周年記念演奏会で「クレーの絵本・第1集」を委嘱初演したときは、演奏に立ち会った作曲者の三善晃先生に花束を忘れるという重大なマナー違反をやってしまったことがあった。特に初演に際しては作曲者や作詞者がステージに上がり演奏者と握手をしたり聴衆に挨拶するという習慣があるのを当時は誰も知らなかったらしい。
 しばらく前の話になるが、東京六大学混声合唱連盟の第50回記念演奏会では、大詰めの合同演奏で史上初めて児童合唱と共演したのだが、指揮者とピアニスト、各団体の学生指揮者に花束を渡したのに、指揮者の隣で一緒に挨拶していた児童合唱の指導者の先生を立たせたまま手ぶらで帰してしまうという失態を演じた。プログラムにも名前を載せていたのに、おそらく事前の確認や打ち合わせが不十分だったのだろう。他人任せにして「耳なし芳一」の経文を書き忘れてしまった典型的なパターンなのだろうが、理由が何であれ満座の席で恥をかかせてしまっては、あとでいくら謝っても取り返しの付かないことになる。花束の予備がなければ、ステージマネージャーの咄嗟の判断で、先生方を優先させて学生の分はなしにするとか、係の子に耳打ちさせて学生指揮者をいったん舞台袖に引っ込めてから花束を渡す係に仕立ててしまうか、直後に先生から回収してあらためて学生に渡す、などなど手違いを露見させない方法はある。ロビーに人をやって団員あての花束から立派そうなやつを借りてくるといった「緊急避難」も覚えていた方がよい。かつて早混の地方公演で本番直前になって花束不足が発覚したときは、先輩に知恵者がいて、数本ずつ引っこ抜いてもう一人分こしらえて事なきを得たそうである。

昔の早稲田の恋愛

 5月30日に練馬文化センターで早稲田大学マンドリン楽部の定期演奏会があって、秋の校友音楽祭ではうちが歌う三善晃「クレーの絵本」で伴奏のギター奏者を紹介して頂くことになり、挨拶かたがた先様のOB/OG会の打ち上げに顔を出した。
 同席したご年配のOGの人は早混にも友人がいて、草創期のフロイデハルモニー(1957年から1995年まで、ほぼ2年に一度、学内の交響楽団と合唱団が合同で第九交響曲を演奏するならわしがあった)のコーラスに出たことがあるとのこと。のちには、各合唱団がメンバーを出して、女声で足らないところはグリークラブあたりと付き合いのある女子大から賛助出演してもらっていたが、当初は合唱サークルの構成員でなくても早稲女の個人参加を募っていた時期があったことは知っていたものの、実際に本人から話を聞けたのは初めてだった。
 早稲田の女子学生が全体の1割ほどになるのが1960年代のことで、この方の在籍されていたころの早稲田はどの学部でも女子は少なく、自然と女の子同士は仲良くなるものだったようだが、なんでも友だちの一人が1学年上の男子学生で混声の人を(当時は、早混ではなく学内では「混声」と呼ばれていた)好きになったけど、思いを打ち明けられぬまま、卒業式の季節になってしまった。学部の何かの行事で「お別れ会」みたいなのが開かれて先輩たちに代わる代わる挨拶をすることになり、これであの人ともお別れなんだ…向き合ったら何も言えなくて目に涙を浮かべて手を握りしめたまま見つめるばかり…。そうしたら、卒業式の前の日に電話がかかってきて…その後、二人は結婚したんですのよ。
 昔は卒論や就職活動の時期に中途で退部する人も多かったので名簿に載っているかどうか分からないし、まして他の合唱サークルかもしれないし、誰かと尋ねるのもヤボな気がしたので聞くだけにしておいた。今の現役が聞いたら「さっさと告ればいいのに」と腹を抱えて笑い出しそうだが、半世紀も前の早稲田の男女は慎ましくも奥ゆかしい恋愛をしていたものである。

2010年5月29日土曜日

敗戦直後の合唱サークル成立の形式―女声か混声か

 第二次世界大戦以前の日本の大学は、「女子大学」と名乗っていない限りは大半が「男子大学」で共学を実施していたのは一部の私立校だけだった。従って、大学で混声合唱団の活動をやっていたのは、教育活動の一環としてやっていた玉川学園やチャペルの合唱隊とその延長線上で宗教音楽を演奏する機会のあった成城学園、関西に目を転じると、付属の女子専門学校と合同で混声を臨時で組織していた同志社(現在のCCDとは直接の関係はない)や近隣の女学校からメンバーを集めて混声合唱団として活動していた京都大学など、わずかな例にとどまっていた。
 敗戦とともに占領軍の政策の重要な柱の一つとして教育改革が実施され、4年制の大学でも原則として男女共学が導入されるようになるのは1949年からである。男ばかりでやっていた各大学の音楽サークルでも新たに入ってきた女子にどう対応するか、様々なパターンが見られた。
 一つは、男声合唱団を改組して混声合唱団として再出発する例があった。混声六連で早混とも付き合いの長い青山学院大学グリーン・ハーモニー合唱団がそうで、もともと同団は大正時代に創設された伝統ある男声合唱団だった。ミッション系の大学の場合、女子学生の浸透度は他よりも早かったようだし、もともと「男子大学」とは別に女子教育を行う系列の学校をかかえていたところは、戦後も短期大学や女子大学として女子の受け皿は存続しているから、4年制の学部生に系列の女子校から人材を追加して混声合唱団をやるのは比較的容易だったようである。
 一方、もともと男声合唱団として活動していたサークルの中には、戦後になって女子学生がやってきて自分たちも入れて欲しいと要求されても、人数比に難があるとか、男社会の伝統を崩すのに抵抗があったとか、様々な理由から混声への改組には踏み切れないところも多かったらしい。従来の男声合唱団に入れるわけにも行かず、サークル内に「女子部」の形で受け入れて、対外的には女声合唱団として活動させたのが慶應義塾大学ワグネルソサイエティや立教大学グリークラブで、現在でも立派な活動を続けている。
 もっとも、同じ看板(ブランド)で女子大学や短期大学をかかえていない学校では、女子の供給をめぐって少ないパイを奪い合うような状態にならざるを得ない。慶應や立教のように女声合唱団がしっかりした組織力を永年育んできた学校では、逆に混声合唱団で有力な団体が台頭することが遅れる結果となったようである。逆に、女声が学内の他の混声に押されて衰退し、活動を続けられなくなったのが東北大学や早稲田大学であった。東北大学男声合唱団の別働隊・通称「ひよこ」は1970年代に活動を停止したが、早稲田大学グリークラブの庇護下で活動していた早稲田大学女声合唱団は1963年に休部に追い込まれている。
 早大グリーの場合、1949年のコール・フリューゲル独立事件のあと、団の活動回復策の一つとして事実上の女子部である女声合唱団の育成・指導が行われた。最盛期には30人ほどの陣容をかかえ、グリー部内の行事では混声合唱の試演も行われたことがグリークラブの百年史「輝く太陽」の中に書かれている(ちなみに、同書に掲載された当時のグリー男子の手記には、「当時の混声の女子は大半が外部からの参加だった」とあるが、これは早混と早大合唱団の活動を取り違えた誤解である。当時でも早混の女子は大部分が早稲田大学の学生だった。本文の記述だったら後日の訂正を正式に申し入れるべきところだが、随筆として書かれた箇所なので目くじらを立てるほどのことでもないと思う)。
 早混との絡みで触れておくと、1950年代は新入生の女子の取り合いで早混の新歓ポスターを引っぱがされて、仕返しに殴り合いの喧嘩になった…なんて物騒な武勇伝もあるのだが、50年も前の話で当事者の多くが鬼籍に入ったこともあり、グリークラブのOBと同席する時にも恨みっこなしの笑い話で済んでいる。
 早稲田で女声合唱団が続かなかった理由は、早混の他にも1950年代には早稲田大学合唱団や早稲田大学コール・ポリフォニーなどインカレ系ながら混声をやっていたサークルが既に活動しており、1960年には早稲田大学室内合唱団が設立されるなど、こと混声に関しては選択肢が多くて、女声はその余波をもろに受けたことが女声合唱団が10年ほどの短命に終わった主な原因だろうが、グリークラブの百年史を編集されたご年配のOBの方から伺った話によると「早稲田内部で自前の人材を育成しようとするよりも、よその女子大の合唱団と仲良くする方に熱心になった」のも女声合唱団が早稲田に根付かなかった一因とのこと。
 そんな時代から半世紀たって、伝統を誇る4年制大学の多くは女子学生であふれ、昔とは逆に男声合唱団が立ちゆかなくなって混声に改組したり、更に(東京大学で最近結成されたそうだが)新たに女声合唱団が誕生するといった動きもあるそうである。早稲田でも「都の西北」を女声3部合唱で聴く日も遠くないかもしれない。

2010年5月28日金曜日

早混の誕生

 早混五十年史が刊行されてもしばらくの間、現役の新入生向け案内などには「昭和23年に教育学部音楽研究会として発足」云々の記述が残っていて、これはとんでもない間違いだからと訂正させて、最近はようやくなくなったようである。
 正解を先に書いておくと「早混の始まりについて述べよ」という設問に答案を書くなら、次のような内容にすれば合格点である。

 1948(昭和23)年の春に、旧学制下の早稲田大学高等師範部社会教育科で「音楽」(講師・梁田貞)の授業を受けていた学生たちが「高等師範部混声合唱団」として合唱活動を始めた。
 翌1949(昭和24)年4月、戦後の学制改革に伴って新たに組織された教育学部には「音楽」の学科や授業が設けられなかったので、学生たちは全学規模のサークルとして活動を継続させることとし、「早稲田大学混声合唱団」を名乗った。


 このデータに基づいて今の現役の子たちは「since 1949」と早混は1949年に設立した…と書いているのだが、文字通り早混をつくった当時の先輩方の間では「うちの創立は昭和23年だ」という認識だったのである。要するに「高等師範部混声合唱団」と「早稲田大学混声合唱団」の間に同一性・連続性があったかどうか、という点が問題となるのだが、当時の経緯を知る人たちに直接インタビューしたところによると、高等師範部混声合唱団のメンバーはほぼ全員が引き続いて早稲田大学混声合唱団の活動に関わったそうである。従って、参加資格は高等師範部の人間だけで始めたとはいえ、1948年から早混は活動を開始したという解釈も成り立つわけで、定義としては微妙なところなのだ。

 「教育学部音楽研究会」という名称が早混の実際の活動とは別に一人歩きして、資料の中に紛らわしい形で残ってしまったのにも複雑な事情がある。詳しい経緯は省くが、高等師範部の部内サークルとして発足した実績があったので、新設の教育学部(高等師範部がそのまま改組したわけではない)からも高等師範部の備品だったピアノを使わせてもらったり、のちに教育学部の建物の中に自前の部室を与えられるという便宜が図られた。つまり、教育学部直属のサークルとして学部の庇護下に置かれたのだが、建前として教育学部の学生たちによる活動であるという体裁を表面上はとらざるを得なかった。教育学部当局との間に交わされた書類には「早稲田大学混声合唱団」ではなく「教育学部音楽研究会」の名が記されていた(責任者その他の代表の氏名を記載する場合、教育学部の学生の名前に代えて申請するようなこともしていたようである)。当時のOGによると学校に書類を出して許可やら何やらもらうために「研究会」としていただけで、「そんな名前を名乗っていた覚えがない」とのことであった。
 実際には他の学部の人間も多数出入りしていて、1950年代を通じて少しずつ団員も増えて行き、実力も備えていったのだが、草創期の役員の悩みとして、全学的なサークルでありながら教育学部のサークルとして厚遇されたことで、部室を持たない他の学生サークルから嫉妬され、色々と嫌がらせを受けたり、「女子を根こそぎ取り込んでしまう存在」(実際にはそんなことはないのだが)として目の敵にされていた時期もあったという。
 これが、現在の1号館の最上階に部室が置かれていた「屋根裏部屋」時代の早混で、1960年代の初頭まで続く。その後、教育学部の庇護を離れて旧8号館の地下に居を構える頃には団員数も激増して「第一次黄金時代」を迎えることになるのである。

ブログの開設にあたって

 「久遠のハーモニー 早稲田大学混声合唱団の半世紀」(早混稲門会)が刊行されたのは2002年11月のことだった。準備期間も含めておおよそ10年経たことになる。以来、早稲田大学校歌研究会の活動に携わったことにより、「校歌」誕生の経緯などで新たな資料や情報が明らかになったのはもちろんのこと、早混やその周辺の記述などでも訂正や補足をしておきたい事項が数多く出てくるようになった。
 本来なら、今後のanniversaryを利用して、団史の補遺や各期生の投稿などをまとめた会誌などの発行を通して、情報を追加・提供するのが望ましいところではあるけれども、それには労力はもちろんのこと費用の工面もばかにならない。
 幸いなことに、インターネット上での情報の発信や整理の手立てに関しては、この10年余のあいだにめざましい進歩がみられた。ホームページや電子掲示板が中心だった従来のネットのサービスは大きく様変わりして、ウィキペディアやブログ、ツイッター、YouTube、SNS等々、選ぶのにも戸惑うほどのツールやシステムが溢れている始末である。早混やその歴史を紹介するホームページを12年ほど前に開設したときは、参照して欲しい項目ごとにコマンドを埋め込んでリンクを張ったり…とうんざりするほどの雑用に追われたものだが、今時のブログでは検索などの仕組みも容易になり、せっせと文章や画像その他のデータをアップして行くだけでもそれなりに体裁のととのったデータの蓄積が出来るようになってしまった。
 そろそろ「え~ッ!早混って八尋先生がつくったんじゃないんですか~?」なんて恐ろしく不勉強な現役生が出てきては困るし、ふだんの付き合いで現役の役員相手によもやま話をするときの負担軽減にもなるだろうから、早混稲門会の関係者や現役で早混の昔話に関心のある人向けの情報発信を再開することにした。
 なお、当然のことながら、早混稲門会・幹事とタイトルには入れてあるものの、あくまでも個人的な立場での発言である点をお含み置き頂きたい。