2010年8月3日火曜日

「早稲田の栄光」いろいろ

 「早稲田の栄光」の歌碑が大隈講堂の時計台の真下に建立されたのが縁で、2008年12月の早混の定期演奏会には作詞者の岩崎巖さんが初めて来場された。曲が生まれてから50年以上も経つのに妙な話だが、今まで岩崎さんは混声合唱による「栄光」を聴かれたことがなかったそうで、早混が保管していた音源から旧編曲、現行版、管弦楽伴奏版など取り混ぜてCDにしてお届けしたところ、丁重な礼状を頂いた。会場の昭和女子大学人見記念講堂で演奏が一通り済んで、学生指揮者が岩崎さんのご来場を伝えるよりも前に「これから『早稲田の栄光』を歌います」と言った途端に割れんばかりの拍手が起こった。1957年頃からほぼ半世紀にわたり団内で愛唱され、主立った演奏会の最後には必ず演奏するほか、新演からフェアウェルまで混声の人間は「栄光」を歌って「栄光」で卒業しております云々の話はお知らせしてあったのだが、「待ってました」と声がかかりそうな会場の雰囲気こそ、岩崎さんには一番嬉しかったのではないかと思う。
 終演後、楽譜には「補作・西條八十」とある点についてお尋ねしたところ、当時創作に使ったノートなども残っていないので記憶は定かではないけれども、4番(早混では3番を飛ばして歌っているので紛らわしいが…)の「先哲の面影偲ぶ」の箇所は自分の手によるものではなく西條先生が書き加えられたものと記憶しております、とのことだった。いずれ、団の関係で再び出版物など出すことがあれば、この件についても記しておきたい。
 校歌研究会の懇談の折に聞いた話だが、晩年の芥川也寸志さんが「栄光」の楽譜を見て、これは自分の作品ではないと仰った由。グリークラブのOB筋によると、「栄光」をグリーが初演した際の練習には芥川さんご自身が立ち会ったそうだから、単にお忘れになっていただけのことだろう。ちなみに、応援部の資料によると、曲が完成したあとに作曲料を用意したところ「早大生が皆で歌ってくれれば十分です」と言って受け取ろうとはなさらなかったので、代わりに記念品を差し上げたそうである。数多くの学生歌の中でも「校歌」「紺碧」と並んで今なお愛唱され続けているのだから、作曲者さえ予想だにしなかったかけがえのない謝礼といえるのではないか。
 「校歌」ほどの混乱はないが、実は「栄光」にも版の違いみたいなものがある。
 早混と交響楽団で使っている楽譜は上記のもので、グリークラブに伝わっている作曲者の自筆譜によれば、これが本来の旋律らしいのだが、応援部の吹奏楽団の定期演奏会でアンコールにチアリーダーの面々とブラスバンドが合同で披露する「栄光」では、下のように歌われている。
 「うけつぎて」を全音下げると、素直で平明なイメージがするし、半音だとメロディーに「一抹の寂しさ」が少し加わって、音楽的には少し気取った「芸術的」な感じがする。どうして変わってしまったのかの経緯は不明だが、どっちが正しいかなどと目くじらを立てるほどの問題でもあるまい。
 また、グリークラブとコール・フリューゲルが歌っている男声四部合唱だと、曲のおしまいに下のような「コーダ」がついている。これは、グリークラブのOBの方に尋ねてみたら、もともとはなかったけれども、こうしたらカッコいいじゃないかと、いつの頃からかやり出して、いつの間にか定着してしまったそうだ。早混や早稲オケの感覚ではオリジナルの作品に勝手に手を加えるなどとんでもないところだが、編曲や改変には寛容なグリークラブらしい。以前に校歌研究会で、「都の西北」の調や速さはどの程度まで許容されるかについて、交響楽団とグリークラブの間で大きく意見が食い違ったときのことを思い出した。

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