2010年5月28日金曜日

早混の誕生

 早混五十年史が刊行されてもしばらくの間、現役の新入生向け案内などには「昭和23年に教育学部音楽研究会として発足」云々の記述が残っていて、これはとんでもない間違いだからと訂正させて、最近はようやくなくなったようである。
 正解を先に書いておくと「早混の始まりについて述べよ」という設問に答案を書くなら、次のような内容にすれば合格点である。

 1948(昭和23)年の春に、旧学制下の早稲田大学高等師範部社会教育科で「音楽」(講師・梁田貞)の授業を受けていた学生たちが「高等師範部混声合唱団」として合唱活動を始めた。
 翌1949(昭和24)年4月、戦後の学制改革に伴って新たに組織された教育学部には「音楽」の学科や授業が設けられなかったので、学生たちは全学規模のサークルとして活動を継続させることとし、「早稲田大学混声合唱団」を名乗った。


 このデータに基づいて今の現役の子たちは「since 1949」と早混は1949年に設立した…と書いているのだが、文字通り早混をつくった当時の先輩方の間では「うちの創立は昭和23年だ」という認識だったのである。要するに「高等師範部混声合唱団」と「早稲田大学混声合唱団」の間に同一性・連続性があったかどうか、という点が問題となるのだが、当時の経緯を知る人たちに直接インタビューしたところによると、高等師範部混声合唱団のメンバーはほぼ全員が引き続いて早稲田大学混声合唱団の活動に関わったそうである。従って、参加資格は高等師範部の人間だけで始めたとはいえ、1948年から早混は活動を開始したという解釈も成り立つわけで、定義としては微妙なところなのだ。

 「教育学部音楽研究会」という名称が早混の実際の活動とは別に一人歩きして、資料の中に紛らわしい形で残ってしまったのにも複雑な事情がある。詳しい経緯は省くが、高等師範部の部内サークルとして発足した実績があったので、新設の教育学部(高等師範部がそのまま改組したわけではない)からも高等師範部の備品だったピアノを使わせてもらったり、のちに教育学部の建物の中に自前の部室を与えられるという便宜が図られた。つまり、教育学部直属のサークルとして学部の庇護下に置かれたのだが、建前として教育学部の学生たちによる活動であるという体裁を表面上はとらざるを得なかった。教育学部当局との間に交わされた書類には「早稲田大学混声合唱団」ではなく「教育学部音楽研究会」の名が記されていた(責任者その他の代表の氏名を記載する場合、教育学部の学生の名前に代えて申請するようなこともしていたようである)。当時のOGによると学校に書類を出して許可やら何やらもらうために「研究会」としていただけで、「そんな名前を名乗っていた覚えがない」とのことであった。
 実際には他の学部の人間も多数出入りしていて、1950年代を通じて少しずつ団員も増えて行き、実力も備えていったのだが、草創期の役員の悩みとして、全学的なサークルでありながら教育学部のサークルとして厚遇されたことで、部室を持たない他の学生サークルから嫉妬され、色々と嫌がらせを受けたり、「女子を根こそぎ取り込んでしまう存在」(実際にはそんなことはないのだが)として目の敵にされていた時期もあったという。
 これが、現在の1号館の最上階に部室が置かれていた「屋根裏部屋」時代の早混で、1960年代の初頭まで続く。その後、教育学部の庇護を離れて旧8号館の地下に居を構える頃には団員数も激増して「第一次黄金時代」を迎えることになるのである。

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