2010年6月7日月曜日

早稲田大学校歌の正しい歌い方・その1

 早慶戦の晩など、学生の騒動防止のため歌舞伎町界隈に大学から警戒・指導に出向くのが常だが、「おまえら本当に早稲田の学生なのか?本物なら『都の西北』を1番から3番まで正しく歌ってみろ」とけしかけてみると、ちゃんと歌えた学生に出会ったためしがない…と知人の早大職員がこぼしていた。

 2番・3番の歌詞がうろ覚えなのはもちろんのこと、2番半ばの譜割がいい加減なのがほとんどなのだが、恥ずかしいことに、2007年の早大125周年の記念に第九を演奏したときのアンコールで1~3番を通して斉唱したら、ものの見事に全員で2番の歌い方を間違えていた。どうせ練習もろくろくしなかったのだろう。校歌シンポジウムをやった翌日にこれだから、さすがに腰が抜けた。

 まず1番で「現世を忘れぬ」に続く「久遠の理想」の旋律だが、東儀鉄笛の自筆譜に基づいて1907年の創立25周年記念の行事で配られた楽譜では、次のようになる。

 学校が出している「早稲田大学歌集」には正しい譜面が載っているのに、講談社「日本の唱歌(下)」や野ばら社などから出ている楽譜だと次のようになっていて、これは公式の典拠に基づくものではない明らかな誤例だが、誰も訂正を申し入れていないらしく、未だに出回っている。
 「ミファソーファミ…」と歌うべきところを、「ファ」を抜かしてしまうのには訳があって、明治期の唱歌や軍歌の類は、ドレミファソラシドを全部使ったメロディーである7音階ではなく、江戸期以来の民謡や俗謡に多く見られる5音階、すなわち長調ならファとシの4・7番目を省いた「ヨナ抜き音階」と呼ばれる音階で作曲されているものが多かったため、聞き覚えと口伝えで歌われて行くうちにファ抜きで歌っていたのがそのまま採譜されたらしいのである。入学式の歌唱指導では正確に歌わせているので、現在の学生はこの種の誤りをしている者はいないみたいだが、念のため。

 下の歌い方は、恐らく大正期から1950年代の中頃まで外部ではもちろん早大関係者の間でも広く歌われていたもので、間違いというよりも「都の西北」が俗謡として「変形」したヴァリエーションと言ったほうが適切かもしれない。
 これは、金田一春彦が「日本語」(岩波新書)や「日本の唱歌(下)」(講談社文庫)でも指摘しており、次のように解説している。

これは作曲者の東儀が、「オン」は一息で一音なのだから下の譜のようにしてはまずいと思ったのであろうが、日本語では「オ」と「ン」がそれぞれ一音で、相馬も「クオン」全体を三音と数えて作詞したのだから下の譜の方が日本語の性格には叶っているというべきである。(日本の唱歌(下)48頁)
 少し補足すると、おそらく東儀鉄笛が「まずい」と判断したのは、西洋音楽では「ン」は母音ではない、分かりやすく言い換えると「ン」で伸ばす歌はないからである。これに対して、日本の伝統音楽では「ん」で引っ張る歌は特殊ではない(学術的には、「『ん』を準母音として扱う」という)。加えて、日本の歌には3文字目で伸ばすという特徴があるため、口承で広まった過程で自然に変わってしまったらしい。楽譜や音源によって歌唱指導をしていたならば、こういう歌い間違いは発生しなかったはずである。3番の歌詞で「あれみよあしこの」が「あれみよかしこの」と変わってしまったのも、この口承が重要な原因というか役割を果たしているのだ。(この記述は、藍川由美「これでいいのか、にっぽんのうた」(文春新書)180頁の瀧廉太郎「花」に関する指摘から重要な示唆を得た)
 
 上記の「くおん~の」という歌い方は、1950年代の末に東儀鉄笛の自筆の楽譜が「発見された」(*)のを機に、学内で本来の正しい楽譜に基づいて歌おうという動きが高まり、現在では、年配の校友でもない限り、「ん」を伸ばして歌われることはなくなった。
 
*戦前も東儀家に保管されていることは知られていたのだが、その後のどさくさで忘れられていたようである。大学史資料センターの学芸員の方によると、自筆譜は昭和初期に大学から戻ってきたときの封筒にそのまま入れられていて、切手と消印が押されていた由。

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