2010年6月6日日曜日

編曲の文化

 昨年、早稲田大学マンドリン楽部のOB/OG会の会誌に寄稿を依頼されて、考えた末に「マンクラさんの特徴は編曲の文化が伸張していることだ」と分かったようなことを書いてお茶を濁してもらったのだが、早混が取り上げてきた音楽の変遷をたどると、編曲がかなりメジャーだった時代とそうでない時期というのがはっきり分かれているようだ。
 旧8号館の部室に残されていたオープン・リールの音源の中に1960年代の六連の模様を収めたものがあって、玉川大学とか今とは異なる加盟団体の演奏も聴けるのだが、当時は邦人作曲家によるオリジナルの混声合唱曲(特にコンサート・ピースとしての合唱組曲)がまだ萌芽期にあり(東混の委嘱・初演作品では佐藤眞「旅」とか三善晃「嫁ぐ娘に」など、のちの時代にも広く受け入れられる作品は出つつあったが)、大学の混声合唱団が取り上げるのはまだオリジナルの作品はきわめて少なかったようだ。
 例えば、1958年の定期演奏会のアンコールではシャブリエの交響詩「スペイン」をそっくり混声とピアノにしたてた編曲が歌われたり、60年代後半でも玉川の六連個別曲ではヨハン・シュトラウスのポルカが混声に化けたりしている。「流浪の民」のようにオリジナルの作品をそのまま訳詞にして取り上げているなどクラシックの作品の流用や移植以外には、フォスターその他の世俗曲や外国の民謡などの編曲が一般的で、訳詞の不自然さを我慢しながらぎこちない歌い方をしているのが興味深い。
 これが1970年代になると、高田三郎、大中恩、三善晃、團伊玖磨など邦人作曲家や作品において選択肢が広がってきて、旧来の編曲物はすっかり影を潜めるようになる。このあたり、早混のレパートリーが大きく変容する時期と重なっていて、我々の団の歩みを知る上で重要なターニング・ポイントになる時期と言ってもよい(いずれ、詳しく書いてみたいと思う)。
 オリジナルの楽曲を優先して、編曲に重きを置かないのはクラシックを専ら取り上げる早混や交響楽団では顕著なようで、これに対してジャズなどの軽音楽系の世界ではアレンジ自体が一つの重要な要素を占めている。SATBなど編成が固定しているわけじゃなくて、実際に確保できるメンバーの楽器によってその都度、編曲を用意しなければ演奏が成り立たないというジャンル自体の内在的な要因があるわけだ。
 グリークラブの場合、編曲かオリジナルかという分け方においては、かなり柔軟な意識があるようで、マーラー「さすらう若人の歌」を男声合唱に仕上げたり、様々なジャンルから男声合唱の魅力を生かすようなアレンジを試行錯誤する一方で、清水脩「月光とピエロ」や多田武彦の一連の作品など男声合唱を想定して創作された楽曲にも強みを発揮している。
 早混の場合、第2次八尋時代以降はレギュラーの演奏会で編曲物をメインにすえるどころか、ほとんどオリジナルのもので固めるのが通例となっていたが、この数年、六連の個別曲で若林千春氏を始めとして、もともと合唱とは縁の無かったジャンルからの編曲を積極的に取り上げるようになったのは、一つの大きな変化と言ってよいだろう。昨年の「だんご三兄弟」みたいに、オリジナルの色彩を一切消し去って別の風景を描き出そうとする若林氏のスタンスには必ずしも賛同しかねる点もあるのだが、オリジナルの合唱曲だけでは知ることのない異次元の音楽に理解を示そうとする姿勢は、早混の音楽づくりに良い刺激となっているのではないかと思う。「早混の伝統が汚れる」とかケチな言い方はしないほうがよかろう。

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